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1分の限界

去年、映像人類学をやっている教授の講演を聞きに行った。
わざわざ実地調査をするのに生きた経験を書面に書くなんてもう古い、
せっかくビデオがあるのだから映像と音声を使って3Dにすればいいじゃないか、
という論調もあれば、結局はビデオを使ったところで映す枠組みは撮影者の主観に
左右されるのだから民族誌と何もかわらんじゃないか、という論調もある。
結論着かずにもめている分野がこの映像人類学だ。

そこで講演者はある実験を行った。ミネソタの山々を移住しながら生活する
羊飼いの家族にビデオを手渡し、動いているときは肩に小型カメラを
乗せ、止まっているときは三脚に乗せて自分達を映すように頼んで撮影されたものだ。

そこで1つ面白いシーンがあった。
2人の羊飼いの男性が焚き火を囲んで談笑するシーン。
1人が「今日の朝、この山の麓で狼がいたけどお前見たか?」と語りかける。
しかし、相手はなかなか返事しない。薪をくべたり痰を吐いたりしてモソモソしている。
そして、ようやく1分くらいたってから「ああ、見たよ」と返事をした。

このシーンを見たとき「こんちきしょー!!」と心の中で絶叫した。
この1分間の無意味な間こそ2人の生活のリズムを表していたからだ。
しかし、それをどう書面に描けばいいのだろう?「『~お前見たか?』と言った1分後に
『ああ見たよ』と返事した」なんて文字で書いて味気がない。かと言って、
『~お前、見たか?』の後に2、3ページ空白にして『ああ、見たよ』と書いたところで
何のことやらわけがわからん。しかも、もしこの空間に調査者がいたら
会話のリズムが崩れてしまう可能性もある。こればかりは映像でしか描きだせない
時間の空白だった。民族誌の限界を突きつけられた1分間。

このシーンの後、講演者の方を見たら「してやったり」という笑顔をしていた。
「おぬし、なかなかやりおるな」と心の中でつぶやいていた。
by fumiwakamatsu | 2005-03-23 15:44 | 文化人類学
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