1990年代初頭、ニュースステーションに中国の国家主席であった鄧小平の娘さんがゲストとして出演していたことがあった。「我が父、鄧小平」という自伝を出版したので、その宣伝のために来日していたのだが、自分の記憶に残っていたのはその娘さんの名前が強烈だったせいだ。「毛毛(マオマオ)」。久米宏が、「そのような名前が付いたのは、お父さんが毛沢東を尊敬されていたからですか?」と質問したところ、そんなことはない、と娘さんは言う。「私が生まれたとき、異常に毛深かったから父がその名前を付けたのだ」だそうだ。一国の頭領が、娘の名前をそんな単純な理由で付けるのか、と驚いてしまった。
名付け、という行為は考えてみるとても面白い。というのも、名付けを通じ、生まれてくる子供という個人に対して特定の意味や価値を持たせて、その他一般の子供と区別化させていかなければならない。それと同時に、名前を選定するときに用いられる言葉がどのような範疇から選ばれ、どのような基準を用いて選定していくのか、というのは社会の規範に沿う必要が出てくる。このように名付けという行為は、一見すると矛盾しているように思える。それは、子供を他の子供とは明確に区別するという「個別化」を目指す一方、その名前の言葉を選ぶ範疇や選定の基準自体は社会的に決められた範囲から逸脱してはいけないという規則に従う必要があるからである(アクマちゃんという名前が受理されなくて裁判を起こした親の例を思い出して下さい)。そのどちら側にベクトルが向くか、というのは歴史的・文化的背景に大きく左右されるのだろう。 話をまた中国の例に戻そう。ある人類学者が、1970年代に中国の農村で実地調査をしていたときに、男女によって名付けのされ方が極端に違う点に気づいた。まず、名付けの回数が違う。女性は、一度決められた名前を一生用いていくのに対し、男性は、子供から大人へと変わる通過儀礼の際に一度名前が変更され、さらに、もし成人になってから偉業を成し遂げた場合には、さらに名前が変えられるそうである。また、名前を選ぶときの言葉も、男女によって違う基準が用いられる。女性の場合は、国花である「梅」が多用されたり、また面白い例として挙げていたのが、当時の中国は冷戦下にあったため「反米」という名前を付けられた女の子もいたそうだ。上の毛毛さんもそうであるが、女性の名前に対しては、それほど個人としての区別を意識しているというよりかは、社会の通例に沿い、あまり名前に対する意味を込めずに名付けをする場合が多い。反対に、男性はというと、生まれた当初に親が付ける名前は女性と同じようにいい加減なものの、第一、第二の名前変更時には、儒教の道徳観を反映した名前が姓名判断の専門家によって丁寧に選ばれるそうである。つまり、男性の場合は、名前を変更してく度に’「社会に対してこのような人間になって欲しい」という個別化が、名前に込められる道徳的な意味により鮮明になってくる。このように、名付けといういたって単純な行為からも、男女による格差が再生産される社会制度を、この人類学者はフェミニストの観点から指摘していたわけである。 同じように、個別化の度合いと社会の通例に沿う度合い、という物差しで日本の場合を振り返ってみると、階級や性別により名付けのされ方が極端に違ったのでじゃないだろうか。近代以前の例をとると、まず名字自体が、侍階級にしかなかった。つまり、氏族の永続が重要とされる階級に限り、名字が付けられていたわけであり、その他の商人や農民は、「反物屋の与平」、「~村の権兵衛」という名前しかなかったわけである(名字が普遍化されたのは、明治以降、近代国家が税金を徴しやすくするために、家族という単位で戸籍制度を作ったせいだろう)。また、名前を見ても、中国と同じく、「太郎→勝千代→晴信→信玄」とある戦国武将の名前が変更されていったように、特権階級における男性に限り、名前の変更による個別化とそこに込められる意味の重要性が増すよう制度化されていた。 明治以降の名付け方を見ても、性差による名付けの違いは大きかったのじゃないだろうか。おそらく昭和初期の世代まで、女性の名前には平仮名表記、男性には漢字表記という形が一般的だったと思う。我が家の父方の例を挙げると、祖母は「すゑ」であり、祖父は「松蔵」である(「若松松蔵」ってどうなのよ?と突っ込みたくなるが)。中国ほどではなくても、平仮名表記と漢字表記を区別することによって、名前に個別の意味を与えるかどうか、とういのは性差によって分断されていたように思う(男性名で漢字表記されても、「一郎」「次郎」「三郎」というように、ただ兄弟間の序列だけを示しているともいえるが)。 で、何が言いたいかと言うと、性別・階級に関係なく、一般的に名付けによって子供を個別化するようになりだしたのは、たかが自分達の親世代から始まっただけなのではないだろうか?もちろんその背景には、教育の普及や、家柄の価値の低下や、女性の社会進出、などの要因が挙げられるけど、どの家庭でも、独自かつ常識の範囲に沿う名前を付けるために、苦労と時間を割くようになったのは、たった60年程度の歴史しかないように思える。 昨日、嫁さんと将来生まれてくる子供の名前について2時間ほど延々と話していて、結局最終的には「いい名前を付ける基準ってなんなんだろうね」という結論で終わってしまった。よく考えると基準がないのは当たり前で、それは名付けで悩んできた歴史自体が非常に短いからなのだろう。だからこそ、名付けの基準の無さから起こる不安に付け込み、姓名判断のような商売が成り立つわけだ。 結局、開き直って、「語感がいい」「可愛い」「若松という名字は古臭いから、名前も古臭いほうがあう」という基準を用いて以下の候補があがりました。 女性名:リン、キヨ 男性名:カツキ、シンノスケ、コウスケ、ソウスケ 長々と書きました、結局皆さんにもご意見をお聞きしたかっただけです。 #
by fumiwakamatsu
| 2010-04-19 05:15
| 文化人類学
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