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食の三角形と人種意識

アメリカに住む日本人が、アメリカにある寿司屋で他人種の板前が寿司を握っているのを見ると
人種差別するわけではないけど抵抗感がある、とよく不平を言う。自分も人種観に関しては脱構築
できている方だと思っていたが、やはり同じ感想を持ってしまう。もしカウンターで日本人の板前と
ラテン系の兄ちゃんの板前がいれば、つい日本人の方にオーダーしてしまう(日本語が通じるから
というのもあるが)。寿司という生ものを扱う人間が同じ人種に属していないと、「穢れ」として認識
してしまうのは何故だろうか、これは無意識に存在する人種差別なのだろうか、と反省してしまう。

ここでやはり考えるべきは食べものに対する「清潔さ」と「穢れ」の二項対立がどう人種観にも
刷り込まれているか、ということなのだろう。レヴィ・ストロースが食の三角形で言わんとしていたことが
まさに当てはまるのではないか、と、先日、寿司屋でラテン系兄ちゃんの握った寿司をほおぼりながら
考えていた。結局、味には何の違いも無いのだ、と再確認しながら。

ただの材料が食べものへと変化するには2つの変容過程を経る必要がある、と彼は食の三角形で
説明している。まず最初には、「生もの」がそのままの状態から別の状態へと変化する過程である。
それは「料理されたもの」か「腐ったもの」の2つに別れる。ここで、「生もの」「料理されたもの」
「腐ったもの」の三角形ができあがる。しかし、なぜ「腐ったもの」が食べものとして認識されずに、
「料理されたもの」だけが食べものとして認識されるのか、というと、それは人工的に「生もの」が
変化させられたのか、それとも自然に変化させられたのか、というもう1つの過程の分岐点を経ている
から、である。つまり、まず最初に「生もの」がそれではないものへと変容し、その後には自然では
なく人工的に変容する、という過程を経て、初めてただの材料が食べものだと認識される、というわけ
である。

さて、レヴィ・ストロースが最も強調しているのが、自然から文化(つまり自然が人工的に変化させれた
もの)への概念的な変化を生み出す二項対立が他の分野の行動様式や価値観にも再生産されて行くと
いう点である。食の三角形の中で彼が述べているのは、「料理されたもの」の中でもさらに「焼いたもの」
と「煮たもの」という自然と文化の二項対立が成り立っていると話を進める。つまり、焼いたものというのは
料理の素材に直接火を通すという野生的な行為であり、逆に煮たものというのは鍋や水という他の物を加え
た上で料理する文化的(人工的な手が加わったという意味で)な行為として位置づけられる。さらには、
焼くという行為はどちらかというと男性が家の外で特別な行事のときに行い(例えばバーベキューとか)、
逆に、煮るという行為は女性が普段から家の中でも行うことが多い、という具合に、性による役割分担、
空間の内と外、特別と普通、という具合に他の行動分野でも最初に出来てしまった二項対立が再生産
されていく、わけである。

話を寿司に戻そう。

たとえただの材料が食べものへと変化する過程で「生もの」が「料理されたもの」という自然から文化
への概念化が必要と言っても、寿司は「生もの」じゃあねえの?という批判が出てくるかもしれない。
この点を日本人の文化人類学者である大貫恵美子が逆手を取って説明しているのだが、日本人にとって
自然から文化への概念化の過程は、むしろ「生もの」を「生もの」、つまり自然を自然なものとして作り
上げることこそが文化への変容だと言うのである。例えば竜安寺の石庭しかり、寿司しかり、それは決して
生の素材がそのまま出されているわけではなく、石の配列の計算や、鮮魚を限りなく新鮮な形で保存する
など、自然と見せるためにものすごい人工的な労力と時間が割かれているわけである。つまり、食で言えば
寿司や刺身などの生ものこそ、最も自然が文化へと「料理された」形の食べものだ、ということになる。

こういうふうに自然と文化の逆転された二項対立が日本人の認識構造にある、という仮定のもとで考える
と、最初に述べた人種意識も説明がつく。レヴィ・ストロースが言うように他の分野でも二項対立が再生産
されるのであれば、集団意識の内と外、清潔と穢れ、特別と普通という分野にも二項対立が投影されてし
まっている、わけである。つまり、寿司という生ものは、特別な機会に食べることが多く、内側の集団
(つまり日本人)が作った上で初めて清潔に食べられる食べものだと認識しているのであり、その一つでも
条件が狂うと(つまり外の集団である他人種が作っていると)その二項対立が崩れ、「穢れている」、と
認識して過剰反応してしまうのだろう。

なるほど、こう考えると、人種差別というよりかは二項対立の認識構造の根深さのせいなのだな、と
改めて寿司屋で日本人の板前にオーダーする際に自己弁護してしまうわけである。しかし、これが
「正しい」と言っているわけではない。いい例を挙げると、うちの馬鹿兄貴は、日本で一度も包丁など
握ったことが無いくせに、ロサンゼルスに住みだしてからは寿司屋の板前として結構稼いでいた。
それは、ただ日本人というだけであたかも「腕がある職人」として勝手に思われているだけであり、
決して本当に腕があるわけではないのである。他人種の板前さんでも腕を磨けばいくらでもいい寿司を
握れるのは当たり前である。

ここまで、ビール三本飲みながら書いてきたけど、果たして上のレヴィ・ストロースの食の三角形の説明
は意味が通じているのだろうか?うーん、来週の授業で説明せなならんのだが、いかんせん、難しいので
困ったもんだ。
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by fumiwakamatsu | 2010-01-31 16:38 | 文化人類学

マイケル・ジャクソン考

先日、学会でアリゾナにいたのだが、学会が終わってから帰りの飛行機に乗るまで時間があったので、1人で映画を観に行くことにした。そこで、色んな人がコメントしていたマイケル・ジャクソンのドキュメンタリー映画「This is it」を選択。観客たった5人ほどの閑散とした映画館の中でマイケルの激しい踊りを観る。

率直な感想は、計算された演出だな、に尽きる。こういうことを言うと冷めた意見に聞こえるかもしれないけれど、この人は最小限の労力で最大限の演出を醸し出すことの出来る天才、というのが正しいと思う。普通に考えれば、齢50歳にもかかわらず、あれほど動き回って口パクもせずに歌える、というのは不可能な話である。でも、その不可能なことを可能にさせているのは、周りの演出の上手さに他ならないと思う。バックダンサーやコーラス、その他の舞台演出が最高潮に盛り上げさせた上で、マイケルがその高波に上手く乗っている、という感じだった。

例えば、バックで激しく規則的に踊っているダンサーの前で、水平的なムーンウォークを入れたり、コーラスが盛り上げて最高潮なときに裏拍のリズムでシャウトを入れたり、という具合に、周りとは異なるよう不規則な歌や踊りを披露することで頂点の存在を際立たせていた。決してマイケル自身が1から10まで盛り上げているのではなく、10まで盛り上がったところに11を足している、という具合である。よく見れば、本人自身はそれほど激しく踊っているわけでもなければ、声量だって大きいわけではない(リハーサルを撮影していから、とも言えるけれど)。

ただ、やはり天才的なのは、その高波に入っていくことの上手さが半端じゃないところだ。ムーンウォークに入る前の姿勢や手の位置の置き所や、たとえ小声でも鼻濁音を使ったシャウトの仕方などが完璧だった。おそらくなのだが、この人は、普通の人間が一つのリズムを刻むところを、16ほどに分けて動くことができ、さらに、3、4手先の動作まで瞬間的に頭で描くことが出来る人なんだろう。例えるなら、サッカーの中田がキラーパスを出す前に全ての選手の動きを予測して、間隙を突く、という天才さに似ているのだと思う。だからこそ、最小限の労力で最大限の演出を醸し出せれるのだろう。

というわけで、決して他の人がコメントしていたように、マイケルの純真さ熱狂さに圧倒されることは無かったのだが、その無駄の無い所作には感服してしまった。あと、ジャクソンファイヴ時代の「I want you back」が流れたときに、マイケルがちょっと歌い辛くなっていたのが、昔の記憶などが蘇っていたからかな、と思うと、少しこちらも目頭が熱くなった。こういう変なところで、感動していたけれど、全体としてはそれほど感激することはなかった。なにはともあれ、一見の価値があることは間違いないです。
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by fumiwakamatsu | 2010-01-18 11:27 | 雑記