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State of Exception

Giorgio AgambenのState of Exception(例外の国家)を読む。

国家主権には非常事態に遭遇すると法を無効にする例外的権力が認められているが、
その例外性が民主主義を全体主義へと変容させる可能性について著者はヨーロッパ諸国の
歴史を反照しながら述べている。欧米諸国は過去に起こった内戦・民衆の反乱・蜂起に対応して、
内閣・大統領が一時的に法を無効にして軍事を強化するという国家の例外性を法制度の中に取り込んで来た。
例えばドイツでは、19世紀のプルシア政府が共産党の武装化を防ぐ目的で「防衛的拘束」の原理を法制化した。
ナチス政権が強制収容所を建設していったのはこの防衛的拘束の法律を応用し、ユダヤ人の脅威から
ドイツ国民を守る名義でヒトラーに例外的権力が認められ、ユダヤ人の権利が剥奪された背景がある。
つまり、国家法制度は市民の生命を守るという名目で法の秩序を無効にするという内的矛盾を包含している。

このような政治と法律のバランス崩れた例外の国家が制度化されてきたのは何故か?
それは、例外性を認める「一時性」と「必然性」という2つの絶対的基準を近代国家が維持してきからだ。
例え一時的に法が無効になっても、国家トップはその無効期間の間に一時的処置を恒常的なものへと変える
法設備を行うことができる。そして、国民の共通的幸福を守るという必然性は、法の遵守から解放される根拠と、
新たな法を制度化する根拠として原則化されていった。従って、この2つの基準の相乗効果により、
超法規的権力が当然の如く法制度の中に取り組まれていったのである。

ここで特に注意すべきは、「必然性」という概念の恣意性だ。
必然性というのはあくまでも国家トップの主観的判断でしかなく、
それは非常事態の必然性が宣言された後にだけ客観性を帯びてくる。
つまりは国民が危機に瀕しているなんていう絶対的基準はどこにもない。

じつは、最近このAgambenの「例外の国家」という概念をいろんな論文で目にする。
言うまでもなく911テロ以降のアメリカの軍事覇権を批判するために多くの知識人が利用しているからだ。
イラク戦争、グアンタナモ収容所、空港における過度のセキュリテリーチェックなどは、まさしく「例外の国家」が
具現化した証拠だろう。ブッシュのようなお馬鹿さんが「アメリカ人はテロの危機に瀕している」や「金正日は悪者だ」と、
主観的な判断を下すだけで、勝手に「例外の国家」が発動してしまう法制度になっているのである。
国家トップが自ら押し進める政策を合理化・正当化するために、法の秩序の中で法の秩序が壊されるというのが問題だ。

マイケル・ムーアの「華氏911」は、ショック効果はあっても的が外れている。
問題はサウジアラビアとブッシュの陰謀説(これもまた根拠が薄い)という個人レベルに還元するのではなく、
ブッシュでなくとも、どの大統領でも同じことを繰り返すことができる「例外の国家」が恒常化している点だろう。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-30 16:49 | 文化人類学

ピンからキリまで

ハーバードの学生は当たり前だけど皆賢い(自分は疑問形)。
賢いのは当たり前なのだが上を見ると切りがないほどずば抜けている連中がいる。
例えば去年まで医療人類学の修士をしていたS。授業の休憩時間に何やら数式が
つまったテキストを読んでいるので、話をしてみると医学試験の準備をしているとのこと。
彼女はテキサス大学の医学部に在籍する中うちの医療人類学の1年コースを履修していた。
あり得ない量の宿題に追われているはずなのに、彼女は見事試験に合格し現在は外科医として活躍している。

また、博士過程1年のDはロースクールにも在籍している。2年間のコースワークを終えた後には、
ロースクールに戻り司法試験の準備をするそうだ。「弁護士と人類学者ならどっちを取るの?」と聞くと、
「中東(彼の専門地域)で司法カウンセラーとして働いた後に大学の教授職に着ければいいんだけどね。
まあ教授職が無理ならしがない弁護士にでもなるよ」とのこと。弁護士を”しがない”と言い切れるのがすごい。
学部時代ですでに有名な雑誌に論文が掲載された人や、物理の博士号を取った後にうちに来た人など、
例を挙げると切が無い。人生経験の豊富さ、知識量の多さ、表現の巧みさ、どれを取っても周りの学生に感心してしまう。

というようなことを同期のEと晩飯を食べながら話していた。Eは自分と同じく直接学部から院に来た若年層。
「何言ってんだよ。俺も働いてないけど経験は豊富だぜ。去年の冬に実家に戻ったときは逮捕されたからな!」
メキシコとの国境の街に帰省したEは、友達とメキシコのクラブで馬鹿騒ぎした後、飲酒運転を理由に
アメリカの警察に拘留されたそうだ。どうやら夜中に越境を試みたメ不法移民の疑いをかけられたらしい。
次の日は丸一日拘置所に閉じ込められ、ようやく両親が潔白を証明してくれて夜には解放された。

「拘置所では他の犯罪者と一緒に入れられてたんだぜ。麻薬の密売で捕まったおっさんに『お前、職業はなんだ?』
って聞かれたから『ハーバードっていう大学院に行ってます』って返事すると『なんでお前みたいな奴がこんな
ところにいるんだ!?』って驚かれちゃったよ。他にも窃盗や家庭暴力で捕まったおっさん達に説教されたよ。」
「そのまま拘置所でフィールドワークすれば良かったのに」と言うと、「馬鹿、俺の担当教官が知ったら怒り狂うぜ。
あ、だからこの話他の奴には一切口外禁止な。まだ退学したくないから」とのこと。彼は別の意味で経験豊富だ。

まあこんな馬鹿な話をしながらも、その後は拘置所における身体の統制についてフーコーを交えながら語るEだった。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-29 13:02 | 雑記

肩の荷が降りる

じつは以前からずっと懸案になってたことが1つあり(鬱だった理由はそれが大半を占めていたんだが)、
今日ようやくそれが解決した。というのは担当教官に日本の水産業に関する資料を集めるよう頼まれていて、
全くと言っていいほど怠っていた。アメリカで取り寄せれる資料が少ないのも確かだが、授業で忙しいので
資料探しに割いている時間がなく7ヶ月経った今でもゼロに等しい量だった。それを打ち明けるのが怖くて、
担当教官のオフィスに出向くのを敬遠し、会って話をしても世間話程度で打ち切ってたので関係が少しギクシャクしていた。

そして先週とうとう呼び出しがかかり、叱られるのを覚悟で今日彼のオフィスに行って来た。
すると話は夏休みの調査の計画について聞かれて、研究について相談しに来ない自分を心配していたようだ。
とにかく大雑把な夏の計画について話をし、6月中はボストンに残り7、8月は日本で過ごすと伝える。
すると、「もし僕が日本にいる時期と重なったなら一緒に捕鯨の町に行ってみよう。あと日本鯨類研究所にも
紹介状を書くから必要なら言ってくれ」とのたまわれた。なんとも優しいお言葉。コネがあるって素晴らしい。
もうこの際に資料集めのことも白状して、「夏に国会図書館でやるので待って下さい」と言うと、
「ああ、そのことならいつでもいいよ。僕も授業で忙しくて研究は進んでないから。フミも忙しかったんだろ?」
とのこと。この人は体格もでかければ器もでかい。今学期はラカンやデリダに苦しめられてたのです、と余計なことまで話してしまった。

無駄に引きこもっていた自分が馬鹿だった。やはり担当教官とは蜜に連絡を取り合わねば、と再確認。
彼はうちの教授陣の中でも格別におおらかな人なので、何も隠し事をする必要は全くない。理想の上司である。
とにかくこれで授業に集中できる、と書きつつも明日のプレゼンの準備がこれっぽちも進んでいない、、、、。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-28 12:52 | 雑記

斜めに構えているだけでもいけない

サスキア・サッセンのGlobal Cityを今日の授業で取り扱った。
要約すると金融市場の規制緩和とコンピューター情報技術の発達によりイギリス、ニューヨーク、東京の三都市に
金融企業の司令中枢部が密集し、各都市部内で階層化が同じように発展してきた、という内容。そして、都市の
中心部では空間のジェントル化(ホテル・レストラン・ブティックなどの中上層が消費するお洒落な場が増えること)が進み、
その反面、奉仕階級として移民の流入が活発になる脱国民化(denationalization)が進んできた、と主張している。

サッセンは社会学者なので統計データを基にしてこのようなグローバル化論を提示しているのだけれども、
果たしてこのようなマクロな理論に太刀打ちするために人類学のフィールドワークがいかに応用できるか、
という議論になった。W教授は昔イギリスで中国人移民の研究をしていたのだが、その内容を他の社会科学者に
説明しても「そんな小規模でフィールドワークという主観的な調査を行っても意味がないじゃないか」と反論されたそうだ。
「わしが文化という概念を使って中国人移民の生活の内面性を強調したところで政治学者や社会学者は何の意味も無い、
と言ってきおるんじゃ。よいか、君達も同じような議論に巻き込まれるんじゃぞ。そのときにどう答えを出すべきか、
しっかり考えてないと教授職にはつけんぞ」とのこと。人類学という組織内でならいくらでも統計的調査の客観性
について批判できるのだが、もし地域研究やグローバル化研究という学際的な枠組みに取り込まれると、
そんな実証主義批判なんて誰も聞いてくれないものである。しかも残念なことに、最近の人類学者は、後者のような学部でしか
仕事が見つからないケースが多い。そのときにどうやって人類学という体系から超えた議論に参加できるかが問題になる。

たしかにW教授のやっていることもサッセンなら「ロンドンの都市変革で奉仕階級として取り込まれた
移民に過ぎない」と論破しそうだ。政治学者や社会学者が提示するマクロな理論の骨組みに、ただ「顔」を見せるような
肉付けをして終しまいになる。日本研究をしている政治学の院生に自分も同じようなことを言われたことがあり、
相手を説得できるのような答えができなかった。「君はただのヒューマニストなんだろう?」と一蹴され悔しかった。

社会科学でもなく人文学でもないあやふやな場所に置かれた学問だと、内向的に議論を進めることしかできないんだろうか?
しかし、そんなことが許されるほど世間は甘くなく、人類学はさらに周辺部へと追いやられてしまう。そうなると、
「文明の衝突」のように、人類学者なら気が狂いそうな政治学の理論が平気で出回ることになってしまう。

果たしてどうしたものか?重い課題だ。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-27 14:12 | 文化人類学

おかげさまで

このブログ開設以来、訪問回数が1万件を突破いたしました。
こんな妄想日記に足を運んで下さるとは申し訳ないやら嬉しいやらです。

さて、今日は学部の先輩Pの博士論文の口頭発表に行ってきた。お題はバングラデッシュ独立戦争と暴力の記憶について。
寝不足だったのであまり理解できなかったのだが、独立戦争時の暴力(民兵による少数民族の虐殺、レイプなど)
を国家が隠蔽しようとする反面、映画・私設記念館・証言録的小説を通じて過去の記憶が明るみにされてきている
状況について話をしていた。面白かったのは、犠牲者の証言に基づいて当時の状況を再現した小説を書き、
彼女はそれを論文の一章にしてしまった点だった。そんな実験的論文をうちの教授が受け入れるのか、不安だったが、
Pは無事博士号を授与されていた。なんで小説にして描いたのか、と聞かれるとPは「証言を聞いているうちに、
当時の体験を共有していない私がどう表現してよいかわからなくなり、証言だと出来事を”事実的”に描けても、
犠牲者の内面性や感情を”事実的”に描くのは不可能だと思ったので、想像力に任せた小説として描いた」と説明していた。

民族誌という表現方法はフィクションではあるが、フィクション的に書いてはならない、という奇妙な鉄則がある。
しかし、表現方法自体に拘束されることにより書けないものを置き去りにしてよいのか、というよのがよく問題にされる。
実際、人類学者の中にはフィールドワークの体験を通じて小説家になる人は多い(Amitav Goshの「In an Antique Land」がいい例)。
それは教授職の終身雇用を得た人だけができる趣味的行為だと思っていたが、博士論文でも認めるようになったとは驚きだった。
James Cliffordは「人類学者なんて、できそこないの小説家や詩人の集まりだ」と揶揄していたが、
人類学という学問体制の中でも「できそこない」ではない小説家になれる可能性がでてきたのかもしれない。

しかし、博士論文の発表を聞きに行くといつも励まされる。
うちの学部では論文発表を終えたあと指導教官達が別室に移り10分程合否の判定を論議する。
そして、もし教授陣がシャンパンを持って部屋に戻ってきたならば無事合格ということになる。
論文の査読は事前に行われているので落ちることは滅多にないのだが、やはり教授陣が
戻って来るときは緊張が増し静かになる。そして、ドアが開いてシャンパンが見えると
一気に歓声が上がり、拍手とハグで会場が満ちる。中には泣き出す院生もいる。
長年の苦労が報われる瞬間とはかくも美しいものか、と感心してしまう。

果たして後何年後にこの感動を味わえることになるのやら。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-26 11:44 | 文化人類学

日曜日の過ごし方

「最高ですかー!!」

意識の限界でどこぞやの教祖様の声が聞こえてきそうだ。
「最高でーす!」と心の中で叫んでしまいそうな自分が恐い。
日曜は最もテンパる。月曜にある授業のためにレポート書くので
いつも寝るのが朝の4時になる。で、11時頃に起きて授業に向かう。

今週はデリダ、リオタール週間。最近気付いたんだが、フランス人の著作は
声を出して読むと吸収力があがる。いや、声に出さないと英語が意味の無い
記号になって全く頭に入ってこない。フランス人は難解かつ、一文が長く、意図的に
矛盾した言葉を並べたりするので、勢いを付けて読まないと途中で何度も頓挫する。
この読み方をWater Splash Readingと自分で勝手に名付けている。

昨日は朝の10時から夜の10時まで学部のビルに篭ってひたすらデリダの
「Resistances of Psychoanalysis」を音読していた。巡回に来る警備員のおばちゃんに
かなり怪しい顔で見られていたが、お構いなしに呪文を唱えるが如くブツブツと読む。
おかげで昨日一日でデリダは読み終わり一安心。が、読み終えても全然記憶に残ってなく
必死に赤線を辿ってレポートを書く。そして、今日はリオタール。これが音読しても頭に入らない。
ラカンのf(S'/S)S=S(+)sなんて公式が出てくるのだが、説明を読んでもさっぱりわからん。
ここまで来るとAcademic Masturbationじゃないのか、とさえ思ってくる。
この2冊に加えさらに4本の論文を読まねばいけない。只今夜の11時、、、。
一週間でこれだけ読ますって人間の知識蓄積能力を超えた量だと思うんですけどね。

皆さん、最高ですかー!!
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by fumiwakamatsu | 2005-04-25 11:50 | 雑記

文化人類学者アトラス

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とあるサイトでこんなマニアックなものを見つけた。どうやらサイトの管理人である人類学者の方が
自力で作ったようである(素晴らしい!)。恥ずかしながら名前が一致する人が10人くらいしかいない。

左側 (番号は左から数えたもの)
最上段:(1)フランツ・ボアツ (2)エドワード・タイラー 
4段目:(4)レビー・ストロース(左側でまだ生きてるのはおそらくこの人だけ。100歳近いはず。)
5段目:(1)マリノウスキー(多分)(5)マルガレット・メッド(多分)
6段目:(4)ルース・ベネディクト(やっぱ綺麗だ!)

右側
3段目:(1)クリフォード・ギアツ(3)誰だこの神経質そうな人は?気になる、、、。
4段目:(6)ポール・ラビノウ(お茶目な写り方だなぁ)
5段目:(4)おそらく日本人だと思うが、謎。
6段目:(1)ジェームズ・クリフォード(5)アジュン・アパデュライ
7段目:(1)アナ・ツィン(この人の著作は全て好き)(3)リラ・アヴォルガ(多分)(5)アイフア・オン

どなたか、他に判別できる人類学者がいれば教えて下さい。マニアックの極みですが。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-24 12:20 | 文化人類学

そんなものなの?

日本のシンクタンクで働く友人からメールが来た。

「経済産業省の国際経済室からの委託で、外国人労働者活用の海外事例収集をしている。
今度アメリカに調査をしに行くことになったが、、調査を受けれいれてくれる民間企業が
見つからない。できれば大学の友人のツテでどこか紹介してくれないか。企業の条件としては、

・インド人や中国人のSE等を雇用しているIT企業
・メキシコ人他、ヒスパニック系等の単純労働者を雇用してい
る輸送業者(流通業界)、食品加工業者、機械・輸送機等製造業者、建設業者 など

今回の調査結果は日本の外国人労働者受入れ政策に影響を与える可能性が高く、
海外の先進事例を学ぶことで、日本で海外と同じ様な問題(人身売買等)が発生させない
ためにも重要な調査と言っても過言ではない」

との内容。驚いたことが2つ。

まず、対象企業を選定する前からアメリカに出張することが決まっていて、その選定を友人に任せるといういい加減さ。
そして、外国人労働者を受け入れるのなら「上層」と「下層」しか認めない、という前提で調査を行っている点。
もちろん、ツテなど一切ないので友人には断りのメールを送っておいた。しかし、こんないい加減な調査を元にして
「日本の外国人労働者受入れ政策に影響を与える可能性が高」いなんて、恐ろしい話だ。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-23 14:41 | 雑記

普遍性と特殊性について

今日は堅い内容。

なぜ木からリンゴが落ちるのか、という質問に対して
Aという民族では「地球に重力が働いているから」という説明が一般的であり、
Bという民族では「誰かが魔術を使って落としたから」という説明が一般的である。
では、なぜAとBの説明が異なるのか述べなさい、という命題があったとする。

Aの説明は普遍的真実であり、Bはまだ理性が発達していない未開人の
説明である、という答えが一般的だろう。では、AとBの説明の違いに見られる普遍性と特
殊性はどれほど根拠があるのか。その根拠を常に疑問視するのが人類学の役割の1つだ。

普遍性が成り立つためには際限なく特殊性が否定される必要がある。
上の例を挙げると、地球の重力の仕組みが誰も魔術をかけてリンゴを落としていない
ことを証明しなければならない。果たしてそういう証明が可能だろうか?
また普遍性とはある一定の空間・場所から発展してきたものであり、それが他の
空間・場所にまで波及していくには他の特殊性を否定するための権力作用が必要となる。
「重力」という考え方はヨーロッパで生まれ、それが他の地域でも通用するようになったのは
植民地化における教育の発展や、「ヨーロッパの言っていることが絶対に正しい」と信じて
盲目的に模倣を試みた弱者の追随の結果である。従って普遍性とは権力という土台がないと
崩れ落ちる可能性があり、際限なく特殊性を否定仕切れる可能性もそれほど高くない。

では特殊性が成り立つためにはどういう根拠が必要になるのか?
上の例だと、Aの説明は「文明の所作」でありBの説明は「未開の所作」という違いを成立させる
ことになる。しかし、その違いの土台となっているのは「社会の進化」という物差しであり、「人類は
未開から文明へと移る過程で理性も普遍的に進化していく」という仮説を前提にしなければ成り立たない。
そんな社会の進化の仮説を客観的に証明するにはタイムマシーンでもない限り不可能だ。
従って、特殊性の差異を主張するには、その差異を裏付ける”普遍的な”物差しが必要となる。男と女は
異なる、と言うときには「生殖器」という”普遍的な”物差しがないとその差異を裏付けることができない。
しかし、上に述べたように普遍性とは完全ではない。もし、”普遍的な”物差しで比較してでしか特殊性
が証明できないのならば、その特殊性は普遍性の否定と同時に否定されることになる。

上に述べたことをまとめると、普遍性とは完全性が欠如していることと同義であり、
特殊性とは差異を強調すると同時にその差異を否定する矛盾の中でしか存在しない。
普遍性も特殊性も無制限に独立して存在する可能性は無に等しくなる。

もう一度上の命題に戻り、どうやってAとBの説明の違いについて語ることができるのか、
普遍性と特殊性という枠組みを抜きにして語ることはできるのか、と考えるとかなり
不可能に近い。でも実際に人類学者はBのような説明をする人々と出会い、なんでそんな
説明をするのか、その理由を明確にしなければならない。これはかなり難しい話である。

人類学を真剣にやるとフィールドワークが嫌いになる人がいる。
「なんで魔術でリンゴが落ちるなんて言うんだ!そんなことを言われると俺が困るじゃないか!」
と逆切れしてしまいたくなるんだろう。でも切れてはいけない。情報提供者を神様のように扱わねばならない。
「相対主義に基づいて他者の社会的経験を人類学的知に翻訳する」なんて言うのは簡単だが実行するのは難しい。
でもその難しさを克服するためにマゾ的喜びを感じてアマゾンの奥地に行ったりするのである。人類学をやっていると自己紹介すると
「自然派なんですね」とか「インディアン好きなんですね」などとよく言われるのだが勘違いも甚だしい。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-22 13:50 | 文化人類学

ダイアン・アーバス

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by fumiwakamatsu | 2005-04-21 13:28 | 雑記