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高く、高く

科学の成立は高次の視座を所有する存在が「神」から「人間」へと移行することで始まった。
中世以前のヨーロッパでは、高みから見下ろせる存在は「神」しかいなかった。
イタリアやフランスの中世都市の広場には必ずといってほど高くそびえる尖塔が隣接し、そこから町並みが整然と広がっているように、
社会の秩序とは高次の視点から発せられた”命令”に服従するが如くして形成されてきた。

しかし、ルネッサンスに入り「神」の権威が失墜し、科学者という一部の人間がその神の視座を専有することができるようになった。
どのような歴史的背景やイデオロギーで、その移行が完成したのかは詳しく知らないが
(リンクにも貼ってあるPDのJさんは、この分野の専門家なので彼女に聞いて欲しい)、
肝心なのは権力装置もそっくりそのまま移行したことだ。
つまり俯瞰的に物事を見渡せる存在者が生産する知こそが、絶対的に正しいという考え方は全く変わっていない。

科学は、高次の視点から眺めることができる物事を収集・序列化し、そこから生産・再生産さ
れた言説を”絶対”知として社会に浸透させていくことで成立していった。
それは、一般人も積極的に科学者が発する言説を欲求し、その権威に従順に屈服してきたという相互の欲が具現化した結果だ。
従って、中世では聖職者が秩序形成を司る知の最終権威者として存在したように、近代では、科学者がその王座に居座っている。
視座と権力というものは密接に繋がっている。例え高次の視座から見えるものは正しいとは限らなくても、だ。

なぜこんな堅い話を始めたかというとこれが民族誌の中でも似たようなケースが多いからだ。

民族誌を読んだことのある人なら気付くことなのだが、
たいていの人類学者は、自分の研究するコミュニティーに入っていく過程を第一章で詳細に説明する。
そこには長い旅程や、調査対象者からの拒絶、などその他諸々の苦難が通過儀礼の如く主観的に書かれている。
しかし、本論の第2章になると、そのような地平からの視点で語る”私”は消え去り、
コミュニティー全体を見渡す視点から”客観的”な語りが始まっていく。

具体的に書くと
「私は砂漠の遊牧民ヴェドウィンに出会うために、オアシスからオアシスへと渡り歩き、渇きに耐えた末ようやく1つの集団にめぐり合うことができた。しかし、そのリーダー格の男は決して私を近づけようとはせずに監視の目を光らせていた、、、、」

というような苦労話が第一章に書かれているかと思うと、第二章は、
「ヴェドウィンの親族形成は、主に交叉イトコ婚の原則で成り立っており、父方の兄弟における異性間の子供同士を結婚させることにより、父系家族の権力が維持される。」

というように社会全体を見渡す視座に移動する。
ようは、最初に「私はそこにいた」ということを明確にすることで事実により近いと読者に思わせ、そして視座を高くすることで自らの知を絶対知として送りだすことができるのだ。

このような文章の構成は民族誌なくても色ろんなジャンルの書物から見出すことができる。
しかし、読者として気をつけなければいけないのは、高次の視点だから正しいのか、という批判的な姿勢であり、ではなぜ高次に視点を移さねばならないか、その後ろに隠れてしまった科学者は一体何を目論んでいるのか、という点まで考えることだろう。
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by fumiwakamatsu | 2004-09-30 09:37 | 文化人類学

寮生活

今日は教育学科にいるJにお呼ばれして、寮の夕食をご馳走になった。
なんとビュッフェスタイルで食べ放題。金欠病にはありがたかった(特に一週間ぶりの野菜)。
Jの他にも教育学科には3人日本人がいて一緒に食事した。
そのうち1人の青年がなんと上智の後輩だった。
しかも、どこかで見た顔だと思ったら、彼は一度うちのサークルに見学に来て話をしたことがあった。
世界は狭いもんだ。

久しぶりに日本人に囲まれて食事をしたので昔住んでいた寮の食堂を思い出した。
4年半、大学の臭い寮に住んでいたのだが、金が無くてもちゃんと栄養ある食事が勝手に出てきた。
食堂のコックさんは「寮生なんてカレーさえ食わしておけば幸せなんだよ」と言って週2回はカレーが出てきたのだが、
なぜか寮のカレーはありえないほどおいしかったのでちっとも苦ではなかった。
そして何よりもいつも大勢の話し相手がいた。今のように1人でテレビに向かって食べるようなことは無かった。
ギャグの応酬で全く食事が進まず、笑いすぎて何度米を鼻に詰まらせたことか。

アパートじゃなくて寮生活でも良かったかな、と少し後悔した一日だった。
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by fumiwakamatsu | 2004-09-29 10:45 | 雑記

君の名は

与えられた名前を途中で変えるというのはどういう心境なんだろう。
名前っていうのは影のように嫌でも一生付き纏うものだと思っていた。
確かに本人の自由かもしれないけれども、名前を変えられると周りは非常に面倒くさい。

日本人には習慣がないけれども、台湾や香港から来た留学生はたいてい英語名を持っている。
いつ頃から英語名を使い出したのか聞いてみると、中学のときの英語の授業で皆英語名をつけて会話を練習するそうだ。
英語圏に来ると中国語の名前は四音が発問されずに同じように聞こえるので(チェンとかチャンとか)、
たしかに英語名を持っているほうが覚えられやすいだろう。

去年の夏休み、留学生用の英語研修を受けていたとき「David」と名乗る台湾人の学生と知り合った。
一ヶ月後、研修が終わりに近づいたとき彼はいきなり「俺は今日からJoeにする」と宣言した。
というのも、彼の所属する研究室にはあまりにもDavidという名前のユダヤ系の生徒が多いことが判明したので、
混乱を避けるために「Joe」に変えたそうだ。
しかし、彼の元の中国名が「Chou」だったので、同じ研修を受けていた中国仲間からは、
「それなら元のChouに戻せばいいじゃないか?」と反論されていた。

それからが、ややこしくなった。
彼に気遣ってJoeと呼んでやる優しい人もいれば、面倒なのでChouと呼び出す中国人もいおり、
どうしても最初の印象が強くてついDavidと呼んでしまう人(自分)もいた。
3つの名前に反応する彼もさぞかし大変だっただろう。

幸い自分はどの英語圏の国に住んでも”フミタカ”を省略して”Fumi”で通している。
しかし、一度アメリカ人の友達に女っぽい名前だと言われたので、新たに英語名を作ろうかと考えたことがある。
マイクやジョージみたいなありふれた名前は嫌だったので、色々と考えたのだが、やはり聖書から名前を選ぶ習慣だとパターンが少ない。
ならいっそのこと英語名じゃなくてもいいや、と開き直り色々候補を挙げてみた。

セバスチャン ワカマツ (フランス語)
ゴンザレス ワカマツ  (スペイン語)
エンリケ ワカマツ   (ポルトガル語) 
カール ワカマツ     (ドイツ語)
ポチョムキン ワカマツ (ロシア語)

どれも毛深そうな男を想い浮かべてしまう名前ばっかだ。
しかも、こんな名前で日本人に紹介されたら”駆け出しのAV男優”みたいに思われそうで嫌だ(特にポチョムキン)。

というわけで、結局Fumiで通している。
せっかく親がつけてくれた名前なんだから、変えないほうがいいだろう。

ちなみに、”文貴”という名前は、小説家を断念した父親が、文才のある子供に育つように、という願いでつけたそうだ。
名実ともにそうなれればいいんだが。



    
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by fumiwakamatsu | 2004-09-28 11:41 | 雑記

卑しいまでに賢く

ただいま全財産3ドル42セント。
日本円にすると420円くらいかな。
先週の月曜日、買い物に行ったらクレジットが使えなかったので、
銀行に行って残高を確かめるとこれっぽっちだった。
この一週間一銭も使っていない。
まったくもって慢性金欠症だ。

でも全然心配していない。
日記にも書いたとおり毎晩のようにビールを飲んで快適に暮らしている。

なんと言ってもここはハーバード。
飢えをしのぐには最適の場所なのだ。

まず普段の生活が、
自宅→図書館→授業→図書館→プール→自宅
という、簡素なものなので一銭もかからない。

たしかに今は学期始めなので夜は色んなパーティーに招かれるのだが、
昼でもキャンパスの至るところで講演会が開かれており、
人を寄せるために無料でサンドイッチやコーヒーなどを配っているのだ。

ちなみに今週の木曜日(給料日)までの献立表は以下のとおり

月 昼 資源と政治経済(人類学部の研究会)          夜 人類学部コロキアム
火 昼 周王朝の遺跡 (考古学科の公演)            夜 友人宅で夕食
水 昼 ソヴィエト時代の宗教 (スラブ研究所の公演)     
木                                     夜 アジア研究所オープンパーティー (寿司が出ます!)

とまあ、講演者の気持ちなぞそっちのけで飯を漁る予定でいる。
飯の出ない隙間は米とキムチが家に大量にあるので自炊で埋める。

こういう賢さを身につけると、
薄給でもエンゲル係数を高くするくとができるのだ。
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by fumiwakamatsu | 2004-09-27 07:16 | 雑記

Sunny Day Service

サニーデイサービス。
そんなバンド名すら聞いたこと無かったのだが、
この夏、友達に勧められてベスト盤CDを買ってアメリカに持ってきた。
これが大当たり。
ほぼ毎日聴いている。

『青春狂想曲』という歌の歌詞がいい。

「そっちはどうだ上手くやっているか?
こっちはこうさ、どうにもならんよ
今のとこまあ、こんな感じなんだ~」

という、だらしのないサビが繰り返される。

この歌詞を聴いていると、
日本にいる友人から語りかけられてるみたいで
なんとなく落ち着いてしまう。

こっちはこうさ、どうにもならんよ。
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by fumiwakamatsu | 2004-09-26 11:11 | 雑記

Party Animal

今週は一度も10時前に帰宅したことはなかった。
図書館に篭りっきり、と言いたいところだが、じつはこの3日間連続でパーティーだった。

水曜日は学部の一年生歓迎会。
今年は14人と大量に入ってきた(ちなみに自分の学年は7人)。
相変わらずうちの学部にはファンキーな子が多く入ってくる。
レズビアンであることを公表したために軍隊を除隊させられた黒人の女の子と話をして盛り上がった。
サングリアをしこたま飲んで酔っ払い、次の日はグロッキー。

木曜日は以前にも日記に書いたライシャワー日本研究所のキックオフパーティーへ。
2年ぶりに着たスーツはありえないほどきつかった。
強引に腹を引っ込めて履いたズボンはコルセットを着たヴィクトリア時代の貴婦人並だった。
去年は誰も知り合いがいなかったら辛かったが、さすがに1年もいると知り合いが増えたので今回は苦痛じゃなかった。
驚いたことに、上野のホームレスコミュニティーで調査していた人類学者が今年からポスドクでハーバードに来ていた。
彼女の博士論文はすでに読んでいたので挨拶してみると、
「あたし、ホームレスの間では”デブ女”って呼ばれてたのよ」、と笑いながら話してくれた。
よくこんな綺麗な白人女性が一緒に住めたなあ、と不思議に思うほど活発で素敵な人だった。
なんというか、文化相対主義を体で学んだタイプの人類学者だ。
こういう人が好きだ。

そして今日は人類学部のキックオフパーティーへ。
毎年、学期始めには「Anthropology Day」と言って、生態人類学、考古人類学、社会人類学の3つが集まって一日かけて学会を開く。
普段は授業しか受けれない教授の研究成果を聞ける貴重な一日だった。
夕方からはピーボディー博物館でパーティー。
「いいか、日本語には”ただ酒より高いものはない(Nothing is more expensive than free beer.)”という諺があるんだ」、
と同期のメキシコ系アメリカ人Eにでたらめを言っていたら、
「なに?日本人はなんて思慮深いんだ!」と感心していた。
そして、ただ酒をいいことに2人で「Sol!」と乾杯しながらビールを飲みまくっていた。

明日はボストン中の日本人大学生が集まるパーティーがある。
禁煙は実行しているものの、禁酒はいたって実行されていない。
まあ日中はちゃんと勉強しているしプールにも行ってるので悪くはあるまい、と納得させている。
自分に甘いなぁ、俺は。
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by fumiwakamatsu | 2004-09-25 13:33 | 雑記

ああ、とうとう

明日からまた授業が始まる。
心臓が飛び出る勢いで緊張している。
胃がキリキリしてたまらない。

時間よ、止まらんもんですか?

去年はいきなり背中にドロップキックをくらい、
よろめきながらも倒れないよう全力で駆け抜けた。
何がなんだかわからず、ずっと息切れしていた1年だった。

今年はさすがに周りを見渡し、敵が来ないか確認できる余裕はある。
しかし、なんといっても修士修了試験が1月に待ち受けている。
その日が近づくにつれて発作を起こしてしまわないか心配だ。

今日は最後の買い物としてコーヒーメーカーを買ってきた。
快適なソファーとコーヒーのアロマ。設備投資は完璧だ。
あとは気持ちを落ち着けて黙々と勉強するのみ。

去年の反省として、今年は
1 猿にもわかるくらい自分の意見を明確にする
2 読んでない学者の説は知ったかぶりしない
3 読めるボキャブラリーと書くボキャブラリーのレベルを近づける
4 教授と話すときは目を見て話す(これが臆病者の自分にはとても難しい)

と基本のことをしっかりやっていこう。

別にハーバードっていう名前にさえびびらなければ、
自分だってちったぁ賢いはずなんだから。

自信を持ってマスター若松になってやろう。

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今の心境
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by fumiwakamatsu | 2004-09-20 09:16 | 雑記

重さか、軽さか

ミランクンデラという作家の「存在の耐えられない軽さ」という小説を4年前に読んだ。
舞台は「プラハの春」のチェコで、千人切りの色情医者が妖美な画家の女性と
一途に尽くそうとする非凡なウェイトレスの女性との間で気持ちを揺れ動かせるお話。

孤独を感じながらも、相手を代え続けながら快楽をむさぼる軽さと、
相手が浮気する恐怖に怯えながらも、一途に愛情を深めていく重さが、
2人の女性を通じて描かれている。

これから読もうとしている人には申し訳ないんだが、
結論を言うと最終的には「重さ」が勝利するエンディングになっている。

プラハの春の騒乱を逃れて医者とウェイトレスの女性はドイツに逃げて結婚するのだが、
女性のほうがフォトジャーナリストになってプラハに戻ろうとするとき男も安全をなげうってついていく。
そして、最終的に浮気をやめ、その女性につくすようになる。

この本は「一途に愛し合うのが正しい」という道徳観を植えつけてるのじゃない。

誰しもこの年(24歳)になれば、すでに付き合っている人や結婚している人にベタ惚れしたことはあるだろう。
仮に、運良くその人を伴侶から略奪して自分のものにできたとしよう。
はたして、それで幸せになれるだろうか?
自分が略奪したように、その人はまた別の人に略奪される可能性はないだろうか?
そんな不安を感じて生きていくならば1人に固執せず生きたほうが幸せじゃないだろうか?
裏切られる恐怖と、1人でいる孤独ならどちらが辛くないだろうか?

この本を読んだときは遠距離恋愛をしていた。
重さを信じて頑張ったけど破局した。
彼女と再会したときは、別れる前に他の男と付き合ってたのを知った。
仕方ない。彼女も寂しかったんだろう。

そして、とても素敵な女性と一夜だけ過ごしたことがある。
彼女は5年間ずっと付き合ってる彼氏がいた。
たしかにその夜は最高だった。
けれども、その人と付き合っても幸せにはなれんだろうと実感した。
次の日は孤独が辛かったが、何も後悔はしなかった。

一度でも裏切られる不安を味わい、そして孤独の上での快楽を味わってしまうと、
はたして結婚なんてできるのだろうか、と疑問におもってしまう。

どうなるんだろう。
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by fumiwakamatsu | 2004-09-19 15:29 | 雑記

あと2日で、、、、

学校が始まってしまう。
で、最後のラストスパートをかけている。
木曜日から4連チャンで飲み。
パーティー嫌いな自分に鞭を売ってタダ酒のある場所へと向かっている。
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by fumiwakamatsu | 2004-09-18 22:40 | 雑記

Make it short, punchy, and sexy.

海外の大学院を受けようと決め、アメリカ人の教授に何のトピックで研究計画表を書けばいいか相談したときこう言われた。

"Fumi, no one cares whatever you write, or whatever topic you choose. Just make it short, punchy and sexy. If any school offers you admission and money, then your topic proves to be right!"

そして、さらに大学院に行くための3つの条件を出してきた。

1、アメリカに行くならIvy League、もしくはそれに準ずる大学院だけを受けろ。
  それ以下のレベルの大学に行ったところで教授職には就けないからな。 
2、金が出ないなら大学院には行くな。金の心配をしながら研究なんてできるわけない。
3、もし、すべり止めで上智の院なんか受けてみろ。俺が絶対に落としてやる!
  もうお前には教えるものは何もないし、第一、すべり止めなんて甘い考えで受けるなら
  大学院に行くこと自体考えるな。

オイオイ、それがこれから学者になろうと大志を抱く教え子に言うことか?と最初は反発した。
でも、今はこのアドバイスにとても感謝している。

日本人にとって「大学院に進んで教授職に就く」という選択肢は崇高なものなのかもしれない。
(一般的には、ひねくれた社会不適合者が企業への就職から逃避するための捌け口として見られてるかもしれないけど)
でも、アメリカ、少なくとも自分の周りは「金にならなければ博士号なんて取る意味ない」と思っている人が多い。
学者だからって別に一生かけてマニアックに1つのことを探求しなければならない、なんて誰も思っていない。
それよりも、学者として生きるためのスキルを学びに博士課程に来ている。

何故こんなことを書いているかと言うと、学部のサイトに名前とメールアドレスが載っているため、
博士課程を受ける受験生からちょくちょく相談のメールが来るからだ。
推敲された研究トピックを持っている人もいれば、中には「うーん、それはちょっと、、」という人もいる。

悪い例を1つ挙げよう。

去年の冬、自分の担当教官と会うためにあるアメリカ人の学生がキャンパスを訪れた。
彼は1年間日本に留学して日本語もしゃべれる。そして、研究トピックの話をすると、
「在米日本人が、どう食パンを概念化しているかを調べてるんだ」と言った。
「え、じゃあその事象を通じてどんな理論的な点を研究するの?」と聞くと、
「味のナショナリズムについてやりたい」と答えた。

開いた口が塞がらなかった。

「ちょっと待て、パンの味覚にナショナリズムもへったくれもないだろう。悪いが、そんなトピックやってどうするの?」
と、言いかける前に、彼は、
「僕は料理も好きだし、食文化に興味があるんだ。それに今の担当教官もいいトピックだって言ってくれたしね」
と、自信満々に話してくれた。

案の定、彼はハーバードを落ちたどころか、そのトピックを褒めた担当教官のいる地元の大学にすら受からなかった。

主観的に自分が好きなトピックだからこそ深く研究ができる、と言う人もいるかもしれないが、いかがなもんだろうか?
むしろ、どんなトピックを与えられても研究できるという万能型の人間のほうが学者としては素晴らしいと思う。
こんな言い方をすると嫌われるかもしれないけど、そうじゃないと時流に乗っていけない。
新しい考え方に適応できない。そして、論点を多角的に見ることができない。
職業的な学者になり、大学という組織が求める研究トピックに答えることができるほうが、自分にとっては成長できると思う。
おそらく今後もこの没個性的な考え方で生きていくだろう。

”Market yourself.”
 
これが、学部時代の担当教官が教えてくれた一番ためになるアドバイスかもしれない。
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by fumiwakamatsu | 2004-09-17 07:06 | 文化人類学