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デュルケイムが個人と集合的良識について語った有名なお話


クリミア戦争が勃発後、ユダヤ系フランス人の軍曹がスパイ容疑で裁判にかけられた。彼の冤罪を証明するために作家のゾラ、そして社会学者であったデュルケイムが弁論に立ち会った。同じユダヤ人として同胞意識があったのは確かだが、デュルケイムは次の演説で見事に裁判官を説得させた。「私はこの軍曹個人を擁護しているのではない。彼を守ることでフランス国家が培ってきた平等概念を擁護しているにすぎない。彼を不当に扱うのは国家という集合体を崩してしまうことになるのだ。」

この話を聞いて個人という単体に法の平等概念が集合的良識として表象される、というのが何か始めて理解できた。

中学時代、技術の先生に「お前の父ちゃんヤクザの弁護士やっとるんやろ?その道では有名な人らしいな」と言われ、ものすごいショックを受けた。家庭では一切仕事の話をしない父親がヤクザを客商売にしてるとは全く知らなかった。本人に確認すると笑って適当にごまかしていた。でも、非難の目で見つめる子供に対面して少し悲しそうにも見えた。

正式な顧問ではないにせよ父親はある暴力団の刑事事件を一手に引き受けていた。ある日父親がいないときに事務所で裁判記録を覗いてみると、麻薬、銃刀不法所持、強姦、殺人などありとあるゆる犯罪が記されていた。本当に父親が悪の片棒を担いでるのかと思うと泣きそうになった。どうしてもその理由が知りたくて当事働いてた研修生のお兄さんに相談してみた。「お父さんは他の弁護士が見捨てる人を弁護してるだけだよ。ヤクザの人達の中には部落出身や在日の人が多いんだ。もとから差別されてきた人達が犯罪に走ってしまうのなら、その人達を犯罪に走らせたのは誰だったのか考えなくちゃいけない」と言われた。中学生の未熟な頭では、まだその意味が理解できなくてただ父親に対して不信感を募らせていた。

そして大学の社会学の授業でデュルケイムの話を聞いたときようやく過去が整理できた。なるほど、父親は集合的良識を守ってただけなんや、と。大学の夏休みに一度父親の事務所でバイトをしたことがあった。父親が被疑者の家族に対してあまりにも容赦なく説教するので、「お前なんかには弁護は頼まん」と怒って帰る人がよくいた。個人の罪は徹底して叱りつけ、法の平等だけは守る。それが父親の理念だった。

バイトしているときに他の弁護士は大企業の顧問になって楽に金を稼いでいるのも知った。冗談半分で、「ぼろい我が家を建替えるためにもどっかの企業の顧問になれば?」と言うと、怒気を含めて「顧問なんかやったら人間腐るんだよ」と言い返された。父親にとっては文無しの麻薬常習犯を弁護することの方が大事だったようだ。

最後にエピソードを一つだけ。
高校3年の頃、行着けの焼き鳥屋で父親と飲んでいたら、急に「おい、わしが麻原の弁護するって言ったらどうする?」と言ってきた。地下鉄サリン事件の直後だった。酔っ払っいの戯言かと相手にしなかったらオウムの広報担当者の名刺を出してきた。「坂本弁護士を救済するためのポスターを事務所に貼ってたんやから、そりゃ矛盾するんちゃうか?でも断ってサリンかけられるの嫌やから家族を守るためにもやりいや」と言うと、笑って「もう断ったよ。マスコミがうちに詰め掛けてきたらたまらんからな」と言った。このときばかりは集合的良識よりも家族という集合体を優先したようだ。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:23 | 文化人類学

究極のフェミニスト

Rubinというフェミニスト人類学者の文章を読んだ。サンフランシスコのSMクラブで20年に渡りフィールドリサーチ。博士論文を仕上げた時にはもう50代前半だったそうだ。

内容を簡潔に述べると、男性による抑圧の解放を叫ぶフェミニスト達は結局自らの言説で新たな価値基準と抑圧的構造を生み出してるという。SMクラブで繰り広げられる暴力と快楽は抑圧=男性の暴力、と簡潔には結びつかない。性について研究する人類学者が極端にフィールドリサーチを避け、学問という閉じられた世界で勝手に言説と権力を作り出す立場を批判している。

あまりにも批判的過ぎたせいで彼女は大学職に就くことなく非常勤講師として各地を転々としているらしい。そして彼女の博士論文はインフォーマントのプライバシーを守るために査定委員以外はアクセスを制限されている。時折学術雑誌に掲載される論文以外、彼女の意見を知ることはできない。

笑えたのが、博士論文のタイトル。"Worshipping the Temple of Butthole!"
直訳すると「肛門寺を崇拝!」かな。こんな魅惑的なタイトルを付けときながらアクセスを制限するとは人が悪い、、、。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:22 | 文化人類学

漫画・ジェンダー・帝国主義

少女漫画を研究する人類学者の講演に行って来た。
またオタク系の日本研究者か、と少し小馬鹿にしてたらどっこい。
明治時代初期に漫画というスタイルが輸入されてから現代に至るまで、主にジェンダーと各時代の社会背景を絡めながら上手く説明していた。
面白かった点が3つ。

(1)昭和初期の少女漫画と少年漫画にはホモエロティズムをほのめかす描写がふんだんに取り入れられた点。男女分離教育を行っていた影響と説明。戦争が近づくにつれて政府がそのような描写を禁止するようになる。

(2)「のらくろ」のストーリーが当事の戦時状況によって全く変わっていった点。最初は入隊したのらくろが軍隊の生活を茶化すような内容だったのに、それが日清戦争、日露戦争を正当化するプロパガンダへと変わる。日清戦争では中国軍が豚、日本軍が犬、そして満州人が羊として描かれ弱者を庇護に置くための戦争として描かれた。当事の爆発的人気を考えると恐ろしい。

(3)戦後の少女漫画について説明しているときにある生徒が「どうして日本の女の子が白人のように描かれているのか」と質問。その答えに「少女漫画に出てくる女の子は白人でも日本人でもなく地球上に存在しない人間だ」と返答。その説明が素晴しかった。丸と点2つ、あと半弧のいわゆるスマイル君を黒板に書き「これ何人だと思う?」と聞いたあと誰もが「白人」と答えた。その後、目の点を斜め線に変えて、「じゃあこれは?」と聞くと皆「アジア人」と答える。つまりは他の人種を想起するようなサインが無ければ自己の人種と同一視して認識される、ということ。たしかに少女漫画の女の子って髪が緑だったり、目が大きくて睫毛が異常に飛び出てたり、決して西洋人ではない。だから日本人読者にはそんな仮想(&理想)の存在が日本人として認識される。

(3)の点は理論的に発展価値あり。Contextless Sign、つまり文脈関連が一切排除された表象は自己に最も近い意味でDecodeされる。ハローキティーが海外でも人気なのは、極度にシンプル化された「かわいさ」が逆に親近感を想起させるから、と誰かが言ってたな。うーん、こりゃ一考の価値ありやね。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:21 | 文化人類学

VMI


フェミニストの英文学者がVMI(ヴァージニア軍隊学校)について書いた民族誌(タイトルはBreaking Out)を読む。連邦政府の男女共学命令に対抗し、南部独特のジェントルマンシップを維持しようとする生徒・教授達の葛藤を描く。「変化を求める人間はおしめの濡れた赤ん坊だけだ」と言い切る教授さえもいる保守的学校。

面白かったのは学校が掲げる「ジェントルマンとは何か」という5つの教訓。

ジェントルマンは
1.自分の恋人についてむやみやたらと話さない。
2.たとえ少量でもアルコールを飲んだら決して恋人の家を訪れない。
3.バラックの窓から見える女性をひやかしてはならない
4.女性の長所・短所について決して語らない
5.見知らぬ人の背中をたたくときは女性を撫でるように優しくする

とても勉強になりました!

この学校では南北戦争時のリー将軍や、南軍が劇的勝利を収めた戦地などを校内の式典で神聖化している。従って、たとえ生徒が全米各地から集められていても、男女共学を強いる連邦政府の命令は「南部に対する北部の支配」として受け止められる。

まだ読み切れてないのでコメントはできないが、この話は「集合的記憶」と「象徴的空白(symbolic vacum)」という視点から考えると面白いかも。前者はよく知られている用語なんでここでは触れないけど、後者は別府晴海という人類学者が提案した理論であまり知られていない。

別府曰く、ある表象(sign)の想起する意味(signifier)が歴史的、社会的状況に応じてネガティブなものに変化すると、signとsignifierの断絶が起こり象徴体系に空白が生じる。そうなると、その空白を別のsignifierで埋めようとする働きが起こってくるという理論。

いい例が日本の国歌・国旗と靖国神社。日本人は他国のように国旗に敬礼し、国歌を歌う形で愛国心を示すことができない。その代わり、「日本人論」などの日本人の固有性を明確にしようとする大衆向け書物が氾濫し、消費に基づいた文化的ナショナリズムが起こってきた、と彼は言う。

果たして、男女平等準が当たり前になった社会では、VIMのジェントルマンシップは象徴体系の空白を生じさせてしまうのだろうか?そしてその反動でどのような新しい意味づけを行っていくのだろうか?
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:20 | 文化人類学

肉体・階層・趣向

こないだテレビで衝撃的な映像を見た。宝くじで100万ドルを当てた男性が、あまりにも太りすぎて(たしか200kg前後)、家のドアかららも出れないので屋根を外してクレーンで救出されていた。毎朝Lサイズのピザ2枚とコーラ6本という恐ろしい食生活を送ってたそうな。

その映像を見てると天国でブルデューがマルクスに対して高笑いする姿を想像した。

「はっはっは、見たかマルクスさんよ。労働者階級がいくら大金もらっても中流階級にはなれんのだよ。しょせんピザとコーラという趣向(disposition)に縛られて大金を投資するなんて考えは起こさんのだよ。私の文化的資産という考えがいかに大事かわかったかね?」

ブルデューさん、あんたはすごい。
でももっとわかりやすい言葉で本を書いてくれ。

ちなみに上のオデブさんはリハビリの成果で100kgくらいまで痩せたそうだ。伸びきった皮膚がルーズソックスのようにくるぶしで垂れていたのが印象的だった。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:19 | 文化人類学

"Theory, thoery, who's got a theory?"


特別講義に来たWeston教授のLong Slow Burnという本に収められた、たった5ページの短い文章。これは社会科学を専攻している人に是非読んで欲しい。

彼女は理論化というものを2つのタイプに分けている。

1つは Straight Theorizing。ようは一目見て理論としてわかる理論だ。西洋の哲学者を引用し、着飾った補足文で彩られた理論。

もう1つはStreet Theorizing。これは普通の人たちが日常を生き抜くために紡ぎ出した理論。日常の背後にある権力関係を端的に示し出す知恵袋のようなものだ。

Westonは人類学におけるゲイ・レズビアン研究が前者に偏っている点を嘆いている。

「ほら、見て、文学者さん!人類学者もデリダを引用してるのよ!決して乗り遅れてないのよー!」

と、競ってアピールするが如く、、、。

では、どうやって後者を使うかだ。ただ説明するための「データ」ではなく、レトリックの戦術、もしくは、そこから勝手に説明があふれ出すような形で使えないか、と模索している。

そこで彼女は空港で出会ったメキシコ系の母子について語る。

8歳くらいの子供が兵隊の歩行の真似をする。

「HUP, two, three, four, HUP, two, three, four」(訳すと、「それ、にー、さん、しー」かな)と叫びながら、背筋を伸ばして椅子の周りを歩き始める。

たまりかねたお母さんが「うるさいから止めなさい!」と叱る。

子供は「だってママ、今のうちに練習をしておかないと軍隊に入れないじゃないか!そうしたら大学も行けないんだよ!」と言い返した。

その返事にどうすることもできず、子供がまた一から歩行練習を繰り返す姿をお母さんはただ見つめる。

人種差別、階層化、そして軍隊が上位動態の道具として機能している点がこの1シーンに凝縮されている。

WestonはこのようなStreet Theoryをどうやってゲイ・レズビアン研究に取り入れることができるか、課題に挙げている。

この短い一章を読んで、民族誌は詩学なんだ、と再確認した。
人々が日常の中で織り成すメタファーの背後に一体何がほのめかされているのか。民族誌はそれをただ読み解く作業であって、決して「理論を真実」として提示する科学ではない。

他の社会科学では、まだ理論が全てと信じてる分野が多いのじゃないだろうか?そんな社会科学者にはStraight TheoryとStreet Theoryのどちらが有意義なのか考えて欲しい。だって、学者が提案するStraight Theoryなんて、学問という閉じられた世界で生き抜くためのStreet Theoryでしかないのだから。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:18 | 文化人類学

Mobility

人間誰しも動く。国境を越え、海を越え、大陸をまたぎ、人間は歴史上常に動いていた。

なぜこんな単純な事実を誰も社会理論に取り入れなかったのか?

「ならば理論を動かしてみようじゃないか」

という一言で始まったのがMobilityという授業だった。

最初のクラスはマルクスの批判だった。

マルクスの経済理論はアダムスミスの「富国論」に基づいている。

財産の形成は土地、工場、人材という三つの要素から成り立っており、従って地主、工場所有者、人材斡旋者に必然的に富が集中するというのが富国論の大まかな内容だ。

では、アダムスミスがこの理論を提案したときその三要素はどこから来ていたか?

イギリス政府は当事奴隷制に基づいてプランテーションを経営していた。つまり、土地はアメリカ、工場はイギリス、そして奴隷はアフリカから連行されており、すでに大西洋をまたぐ大きな経済構造が形成されていた。

アダムスミスが富国論を提案したとき、彼は奴隷制度の暴力性をすでに理解しており、イギリス政府に対して道徳的な批判を行っていたのだ。

しかし、マルクスの「資本論」に至ると、三要素が大西洋を動いていた事実は消されている。これら三要素は常にイギリス国内から発生し産業革命を経て世界市場が自然と拡大される、という筋書きに変わる。

つまりのところ、彼はMobility(移動性)を無視することで初めて自分の理論を打ち立てたのだった。

「移動性という概念を取り入れて過去の理論を崩していこう。」

最後にそう言われたとき、さすがに身震いした。そしてこの時ばかりでなく、毎授業、「えーそんな風にも考えられるの?」と最低3回は心の中で唱えるほど素晴らしいクラスだった。

その授業を教えていたのはマレーシア出身でシカゴ大で博士号を取った若い教授だった。博士論文を仕上げる前に採用されたといううちの大学では奇跡的な存在だ。その実績通り、ものすごく明晰で鋭いアイディアがポンポン口から出てくる。しかも人当たりが良くて、生徒全員が好感を持っていた。

授業の最終日、教授と共に皆で飲みに行った。いつもどおり笑いが絶えず楽しかった。

そしてある生徒が最後に「来年はどのような予定なんですか?」と聞いた。教授は「来年は最初で最後の有給休暇さ。旅を続けながら論文を書こうと思う」と返事した。

その後一同静まり返った。つまり休暇が終わったあとは帰ってこない、という意味だ。

彼は今年で講師の期限が切れるので、後は大学側が正式採用するかどうかにかかっていた。噂でNYのある大学からオファーをもらっていることは知っていたが、まさかうちの大学がこの教授を引き止めないとは思っていなかった。自分の論文査定委員に入ってもらおうと思っていたのに。すでに名声を上げた年配の教授しか雇わないこの大学が腹立たしくて仕方なかった。

でも最後に彼の授業を取れて本当に良かったと思う。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:17 | 文化人類学

寿司食いねぇ!

担当教官が「東京」というタイトルの授業を教えている。
寿司のグローバル化を研究している担当教官は、アメリカでいかに寿司が浸透してきたかを示すためにE-Bayで買い漁った寿司グッズを授業に持ってきた。

「アメリカ流寿司の巻き方ベスト20」という本の中にはピーナッツバターといくらを使った手巻きが紹介されていたり、

「寿司ソング」というわけのわからんカントリー風のCDや、

子供が寿司に馴染めることができるように「寿司のABC]という絵本があったり、盛りだくさんだった。

うけたのが「バービーちゃん板前セット」。

はっぴを着たバービーちゃんが寿司屋のカウンターと寿司の模型と一緒に入っていた。そしてカウンターに書いてある日本語のメニューを読んで見ると誤記だらけで、授業中にもかかわらず声を上げて笑ってしまった。

「黄ビール」、、しょっぱそう!
「生バール」、、、硬そう!
「にぎろ」、、、生々しい!

バービーちゃんが「にぎろは何にいたします?」とか「黄ビール一丁!」とか言ったら変なこと連想しません?
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:15 | 文化人類学

文化は進歩し続ける

全く内容の異なる2つの講演でこの言葉を2回聞いた。そしてそのどちらとも文化人類学が歩むべき方向性について考えさせられるものだった。

まず修正進化論を唱えるNY州立大学の生物学者の講演。

これまでの進化論は「最も適合した者が生き残る」というダーウィンが唱えた個人レベルでの進化論と「最も適合した集団が生き残る」という社会進化論に二分されてきた。では、その2つを繋げる中間点を探ろうというもの。

簡潔に論調を述べると

(1)個人が自己の利益を最大限化させると集団全体の再生産能力が低下する
(2)従って無意味な競争を避けるために共存を図る道徳観(これを文化と講演者は呼んでいた)が集合体の中で進化していく。
(3)最終的に、バランスの取れた文化を持ち合わせる集合体は生存率が高まり個人レベルで遺伝子も同様に最適化する

という内容。

20世紀に植民地主義を煽った社会ダーウィニズムの再来である。

腹立たしかったのは、バクテリアや蜂の集合的働きの例を用いて、それが人間社会にも当てはまるという、単純な飛躍だった。こんな理論は簡単に批判できる。

人間社会において一体どこの集合体が他の集合体とミックスせずに遺伝子を再生産し続けると言うのか?そして文化レベルでの融合性をどう説明するのか?

最後に講演者が自著の「ダーウィンの教会」という本を説明し、「一見なんの実用性もない宗教的儀式も集合体の生存のために機能している」という主張をした。時代錯誤も甚だしい。そんなことは人類学者のマリノウスキーが100年前に言ってるのに。

心の中で何度も「ふざけるな!」と叫んでいたが、嬉しいことに質問の際、他の生徒が批判をしまくり場内が騒然となった。この大学の生徒はまだ健全なことを知ってホッとした。

新たに修正社会ダーウィニズムを唱える学者が出てきていることを知っただけでも大きな収穫だった。このような論調は容易に人種差別に変わっていく。アメリカ人類学の創始者であるフランツ・ボアズが半世紀前に公然と社会ダーウィニズムを批判したように、文化人類学者として真っ先にこのような理論を批判せねばならない。

2つめの講演は「Black Bitches Talking」というオーストラリア原住民の女性5人をインタビューしたドキュメンタリーフィルムを見たとき。出身地、職業、階層の全く異なる5人が、日常の人種差別、アボリジニーとしてのアイデンティティーの回復を語る。最終的に5人が同じテーブルで夕食を食べ、団結を誓い未来に進む、という内容。

上映が終わったあと、同じく原住民である監督が質問に応じ、「私達の肌の黒さは変わりません。しかしアボリジーとしての文化は進化し続けます」と話した。

皮肉に聞こえるかもしれないが、彼女の言う文化とは「創られた文化」に過ぎない。

だって彼女達の2世代前までは、各部族間に何の交流も無く、近年になって社会的に差別されてきた仲間という意識が広がったために「同じ文化を共有する」と唱えているのだ。それに同胞というよりは、弁護士のお姉さんもいればアル中のおばさんもいて、むしろ差異の方が目立った。

もっと皮肉になろう。

この監督が自製の映画を作ってアボリジニーの立場を発言できるのは、白人という覇権者が立場を与えて初めて発言できるようになったからだ。「発言できない者」から「発言出来る者」への移行が、権力関係を全く変えていない点を彼女は認識していない。そして、自ら同胞意識を煽ることで、差別されていた原住民の中に新たに差別が生まれている点(例えばアル中のおばさんの貧困は軽視されている)も意識していない。

イタリアの思想家グラムシーが「ヘゲモニー(覇権)は目に見えない。被抑圧的立場から脱出するためには抑圧者へと移行するしか手段はない。」と唱えたのが、見事に当てはまっている。

では、「アボリジニーの文化は近年になって創られた偽の文化である」、と構築主義立場に基づいて文化人類学者が結論すべきか?

答えは否だ。

人種、階層、年齢、ジェンダーなどのアイデンティティーに従って、社会的に抑圧されてきた者(インドの被抑圧的カースト集団の名前に従ってサバルタンと呼ばれている)が、発言する場を作り出すために自らの文化を戦略的に本質化させているのであって、学者が権威を盾にそのような運動をつぶしてよいのか?

文学者スピバックは、文化人類学が構築主義に偏り始めたとき、真っ先にそう批判した。

従って、被抑圧者が戦略的本質主義に拠らなければならない社会の文脈を明確化し、彼/彼女達の達の向上を助成しながらヘゲモニーの構造を批判すべき、というのが現在の妥協点である。

しかし、これもまだ解決策ではない。結局サバルタンに発言の機会を与える最終権力は我々が把握しているからだ。ヘゲモニーに変わらない。

これが以前の日記で書いた文化人類学の孕む他者表出の問題である。完全に口を閉ざして民族誌など書かない方が権力の不均等を生まないのだろうか?

ここで反論したい。

スピバックの批判も、サバルタンという他者を道具に使って初めて成り立っているのである。他者表出の暴力性はどちらも同レベルではないだろうか?
そして、沈黙することも1つの演出に過ぎない。それは他の権力者に最終判断を委ね、批判する機会すらも消してしまうことになる。先述の生物学者をのさばらせる危険を生んでしまう。

ここまで来ると完全に袋小路だ。

しかし文化人類学はまだサバルタンと直接接触を図る柔軟性を持っている。
この柔軟性に僅かながらも新たな可能性が含まれていないだろうか?

今日聞いた2つの「文化は進化する」という発言は、いい意味で文化人類学への挑戦だった。変化こそが永続なり。

追伸:今日の日記を読んで面白いと思われた方はリンクにも貼ってある太田好信氏の「民族誌的近代への介入」という本を読んでみて下さい。正直言って彼の主張をパクッてます。えへへ。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:13 | 文化人類学

Railway Urbanism

田園都市線沿いに住むある女の子が将来も田園都市線沿いに一軒家を構えてくれるほど収入のある人と結婚したい、と言っていた。

この子は一生東急の奴隷として生きていく。
東京私鉄沿線に住むというのは、最寄の私鉄会社に一生金を払い続ける、という循環から逃れられない。

小田急を例にとろう。

まず小田急沿線には小田急不動産会社が建てた郊外の一軒家が立ち並び、駅から最寄のバス亭に行くには小田急バスに乗らなければならない。

そして週末は新宿の小田急デパートのバーゲンに翻弄されるか、小田急の最終駅近くにある娯楽施設に遊びに行くために小田急に乗るか、という消費パターンにはまる。

これが東急ならもっとひどい。だって広告会社まで経営してるいるから。
「田園都市線に住むのはハイソな生活の象徴です」という言説すら自ら創り
出すことができるのだ。

日本の私鉄会社は郊外の商業化と同時進行していった。
そして目に見えない消費の循環を生み出してる。
先述の女の子のように「田園都市線に住む=ハイソな生活」と思い込んだら、「ふふふ、奴隷がもう1人できあがり」とほくそ笑んでる奴が影にいるのだ。後はハツカネズミが車輪を永遠にまわし続けるように、死ぬまで生産と消費を繰り返すだけだ。

Railway Urbanismって怖いでしょう?

追伸:
フランクフルト学派ベンジャミンは「音楽やネオンが視覚・聴覚を混乱させ、思考を麻痺させる。この効果こそ文化産業が消費を促進するための切り札なのだ」と言った。この理論に基づき歴史学科にいる日本人の友達が、明治初期の私鉄デパートと音楽産業の発展というテーマで研究をしている。それを聞いたとき「やられたー!」と思った
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:11 | 文化人類学