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引き続き写真公開

Dacaffeというサイトを見ていたらとても家族を紹介したくなったので今日も家族写真を公開(日記を書くのが面倒くさいのが本音)。

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元ヤンキーだとそんなにもてるのか!と愚痴りたくなるデレデレの長男と綺麗なお嫁さん。
この時の長男は今の自分と同じ歳(24歳)だ。複雑、、、、、。

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前のページの次男と同じく只今ロス在住。2人の子供と一緒にに最近剣道を始めたそうだ。冬休みに遊びにいくときは家族内剣道大会を開く予定。が、6歳の甥に負けそうで恐い、、、。

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三男、母、父。2年前に白川郷に行ったときの写真。大人にもなって兄弟3人とも坊主っていうのはいかがなものか。かく言う自分も年に1回は坊主になるのだが。

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5人だよ、全員集合。どうやら2歳になったときのようだ。
母親にこの写真を見せたら、「このときのまま成長してくれなければ良かったんだけどねえ」と一言。
しかし、次男(右横)の親父くさい顔はなんだ。


とまあ、こんな家族です。成長した姉の写真だけ持ってくるのを忘れてしまった。残念。
昔はそんなことなかったのに、年をとるたびに兄弟全員の顔が似てきたのが嫌だ。父方のお祖母ちゃんの血が非常に濃く残っているようだ。

夏場になるとこんな男どもがパンツ一丁で食卓を囲んでいたんだから暑苦しくて仕方がなかった。現在、実家に残っているのは姉と三男のみ。あとは全員アメリカに永住を希望(長男はグリーンカードを取っている)。ディアスポラ(流民)一家だ。



                               (おまけ)

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右側のかわい子ちゃんに注目。カナダ留学中に出会った香港人だ。

彼女は日本語を3年間も勉強していると言っていたので、
「デハ、Lesson1.ヘンナカオシテクダサイ。」
と話しかけたら、






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こうなった。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-31 10:01 | 雑記

写真公開

Blogは簡単に写真をアップロードできるのが嬉しい。

埃を被っていたスキャナーをフル活用して写真をデジタル化している。
んでもってその一部を公開。
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これはリンクにも貼ってある宝泉院。全ての意味が二項対立になっている不思議な寺だ。庭には松竹梅(めでたさ)が植えてあるのに血塗り天井と言って、鳥羽の合戦で自害したサムライの顔や指が血で残っている板を天井に使っている。中庭には、鶴亀の形をした池があるのにその横には沙羅双樹(夏に一日だけ花を咲かせてかれるので短命の象徴)が植えられている。一体この寺を作った建築家の意図は何だったのか、考えさせられる。

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フランスの文化人類学者レビー・ストロースが川で水浴。
昔の人類学者はこんなところで調査するのが当たり前だった。
そしてこんな僻地で考えたことで構造学というパラダイムを作ったのだからすごい。
しかし、ほんわかとした風景だ。

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京都の町屋に住むおばあちゃん(中央)。血は繋がっていないが、ずっとおばあちゃんとして接している。左は伯母。ちなみに元宝塚ジェンヌだ。この町屋は築100年。2階がとても素敵な書斎になっていて、明治の文豪的気分になれる。

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こんな不釣合いな夫婦がいてよいものか!次男は元ヤンキーだっただけにとても綺麗で優しいお嫁さんを見つけた。今は子供も生まれて仲良くロスで暮らしている。ちなみに、あまりにも貧乏な次男は、ズボンが借りれなくて下半身は短パンで撮影したそうだ。

以上、一度にアップロードするとページが重くなるのでここで終わりにします。
これからも気が向いたら時々写真を載せる予定。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-30 12:53 | 雑記

”ヒトヅマ”になっちまった悲しみに

Iは艶っぽくなった。

昔は化粧もせず、宇宙人のように無機質な顔をしていた。
何を話しても論理的で、機械のように正確な思考回路だった。
「ちったぁ女っぽくなれば?」としょっちゅう本人の前で愚痴っていたのに。

それが、どうだ。

結婚生活1年半も経つと”ヒトヅマ”になった。
ぼさぼさに長かった髪にはパーマがあてられ、
ちゃんとアイシャドウと口紅も塗っていた。
時折見せる笑顔もやわらかくなった。
愛されると人はここまで変わるのか。

イタリア人街のとあるレストランで一緒に昼食を食べながら、そんなことを思っていた。
Iは今取っているアメリカ憲法の話に夢中になり、三権分立が定着した歴史的背景について力説していた。相変わらず彼女の話は鋭く聞いていて面白い。でも、雰囲気は大学時代と全く違う。

帰国子女が多く占めるうちの学部で、Iと自分は日本の高校から上がってきた、いわゆる、”純ジャパ”と呼ばれる少数派だった。Iと初めて会ったとき、東京の女の子はこんなにも賢いのか、と驚ろいてしまった。彼女のように頭が良くくなりたかったので、1年次は一緒に哲学の授業をとった。わけがわからないままでも、「自己の身体が客体化されるとはどういうことか」など学校の帰り道に議論しあっていたものだ。学問のことならお互い率直に話合える貴重な仲間の1人だった。

そんな2人がなぜか今はボストンにいる。あの時には想像すらしなかった。

Iは大学1年のとき交換留学で来ていたアメリカ人に恋をした。初めての彼氏だったのに、4年間の遠距離恋愛を乗り越え、昨年結婚した。彼氏はボストンの某大手会計会社で働いている。家計は楽なはずだが、専業主婦にはなりたくなかったIは弁護士を目指すことにした。そしてボストンのとあるロースクールに見事合格した。昼は法律事務所でバイト、夜は学生の二束わらじで頑張っている。

ボストンに来てから何度か会ったのだが、会う度に昔の空気が壊れていくのを感じた。

いつも旦那が一緒に来るから彼女の行動が全て旦那を優先にしてしまうのも一理だ。例えば、去年の暮れには、一緒に年越そばを食べよう、と誘ってくれたのだが、いざ行ってみると「旦那がそば嫌いだからタコスでもいい?」と言われた。楽しみにしていたぶん、年越タコスは悲しかった。

しかし、今日は初めて旦那抜きで会ったが、それでも壁を感じた。昔は関心のないことでも相手の意見に耳を傾けていたが、彼女に捕鯨の話をすると、とてもつまらなさそうだったので途中で話題を変えた。結局、同級生の近況、最近の映画、お勧めのレストランなど、当たり障りのない話をして終わった。広く、深く話せた過去はもうなかった。

Iは艶っぽさを手に入れた代償に何か無くしてしまったように思えた。

昼食後、旦那が迎えに来る場所まで歩きながら、Iは笑いながら話してきた。

「Fumiも早く誰か見つかるといいね。日本人じゃないと駄目なの?」
「いや、俺は博愛主義なんで人種・国籍は問わへんで。っていうか選んどる余裕すらないがな」
「そっか、じゃあ学校でいい子見つけたら紹介してあげるね。結婚生活もいいものよ。ほんと、色々と安定するしね。」
「ほいほい、ほな宜しく頼んますわ。」

そして、旦那がの車が到着した。すぐさまIが助手席に乗り込むと旦那が頬にキスをした。
「今度、ハーバードの近くで一緒にカヤックでも漕ごう」と2人に向かって叫んだ。そして車は走って行った。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-30 10:45 | 雑記

飲茶・チャイナタウン・J.CREW

なぜかボストンは真夏に逆戻りしてしまった。
つい3日前までは秋空が広がってたのに、急に高温多湿な気候になった。
こんな暑さに負けてなるものか、と思いパワフルな一日を過ごした。

朝はSとLに連れられて朝からチャイナタウンに飲茶を食べに行く。

飲茶はたくさんの品物を少しずつ食べれるから楽しい。
色んな食べ物を荷台に載せて、テーブルの隙間を縫いながらウェイトレスが運んでいく。
欲しいものがあったらその場で止めて、テーブルの上に盛ってもらう。普段は、指を差しながらエセ中国語で「イーガ、イーガ(一つ一つ)」と喚くのだが、今日は中国系アメリカ人である2人に任せた。

ブランチで軽く食べるはずだったがグロッキーになるほど食べてしまった。
中華料理を食べるたびに疑問に思うことがある。なぜ、こんなに油っこいものを大量に食べているのに中国人は太った人がいないのか。Sに聞いてみると、「それは中国4000年の歴史の秘密だ」と適当にごまかしていた。なぜか、タピオカの語源の話になり、「あの漢字は広東語のスラングで’巨乳’って意味なんだ」と説明してくれた。こんな知識だけは豊富なSだ。

たらふく食って1人1000円程度。妊婦のような重い足取りでチャイナタウンをぶらつく。

喧騒、人ごみ、悪臭、砂埃。
どの都市のチャイナタウンに行っても同じような光景が広がっている。
肉屋さんの店頭には豚の頭が並び、路上ではジャンキーのおっさんが空に向かって何かを叫んでいる。バンコクでも、バンクーバーでも、ニューヨークでも、ボストンでもチャイナタウンだけはどこも変わらない。神戸と横浜だけが例外なのだろうか。なぜチャイナタウンだけが再開発を逃れてスラムの様相を残すのか、誰か調べて欲しいもんだ(確実にもう調べられているとは思うけど)。

午後にはハーバードに戻り、別の友達とチャールズ川でカヤックに乗る予定だった。
Lは学校に戻らねばならないのでSだけを連れて行く。
ボートハウスに着くとすでに7人ほど集まっていた。
さっそく各々のカヤックに別れて漕ぎ出す。

青い空、芝生の広がる川岸。日本の川からは想像できないのどかさ。
鴨の群れの横につけながらボートを漕いでいるとここがどこなのか忘れてしまう。
チャイナタウンとは対極にある空気だった。

村上春樹が言うには、ハーバードやプリンストンの学生にとってJ.CREWを着るのは一種のエリートステータスだそうだ。しかし、彼はチャールズ川でボートに乗らなかったからそんなことを言ったのだろう。だって、この川でボートを漕ぐにはJ.CREWのシンプルなチノパンとコットンのシャツが嫌でも似合うもの。日本の祭りに浴衣が似合うのと同じようにだ。エリート意識なんて二の次だ。

2時間ほど漕いで終了。飲茶で取ったカロリーがちゃんと相殺された。
冬になって水面が凍りだす前にもう一度誰かを誘って行きたい(できれば女の子と)。

(写真は前がSで後ろが自分。人類学者2人が漕ぐカヌーは早い)







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by fumiwakamatsu | 2004-08-30 00:38 | 雑記

MIT

上智の寮で2年生のときに一緒に住んでいたルームメイトSと4年ぶりに再会した。

SはCUNYの大学院で生物人類学(猿がいかに人に進化したか研究する人類学の一分野)を専攻している。夏休みはずっと研究室に篭っていたが、さすがにネアンデルタール人の骨ばっかり見ていると気が狂いそうになっのでボストンまで遊びにきた。

MITに行っている彼の友人Lも連れてアフガニスタン料理屋で食事をした。
このアフガン料理屋はボストンでも超穴場の名店。噂によるとカルザイ大統領の弟が経営しているらしい。
香辛料をたっぷり使ったラム肉のステーキが手頃な価格で食べられる。
いつも客人が来たときはこの料理屋さんに連れて行き、舌鼓を打たせる。
今回もご満悦だったようだ。

その後MITの近くのバーで飲む。

宇宙物理学を専攻しているLがNASAでインターンシップをしてたときの話で盛り上がった。
博士課程を卒業したら自動的にNASAで働けるそうなのだ。が、内部の官僚主義に嫌気がさしたので彼はコミュニティーカレッジで教鞭を取る予定でいる。NASAに行けば初任給が年間800万出るのに。俺なら絶対飛びつくけどなあ、、。

気持ちよく酔っ払ったのでLにMITのキャンパスを案内してもらう。

なんとまあ、この大学は自家用の火力発電所があった!キャンパス内の電力は全てそれで賄っているそうだ。それで驚いていたら「向こうには小さいけど原発もあるよ。実験用だけどね。」とまで言ってきた。ありえん。

Lのオフィスは小洒落て綺麗だった。パソコンやソファー、オフィス内の全てが大学から支給されていた。

もうここまで見せ付けられたので、ずっと気になっていた質問をぶつけてみた。

「一体ここの生徒は1人いくらほどの研究費をもらってるの?」
「まあ、博士課程の生徒なら1人100万ドル(1億円)くらいかな。」

と、さらりと言いやがった。
スケールが違いすぎる、、、、。

帰り道は少しブルーだった。
Sと一緒に、どれだけ文系人間が論文の調査をするために学外の奨学金(しかも年間300万程度)を取るのに必死になっているか、ぶつぶつ愚痴っていた。

でもこれが理系と文系の差なのだ。
こんちくしょーーーーー!!
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by fumiwakamatsu | 2004-08-28 12:52 | 雑記

手始めに

前のサイトで書いた日記のうち気に入っているものをこちらに移しました。
ほとんどは”文化人類学”の欄に納められています。

興味のある方は是非お読み下さい。

そしてできればコメント下さい。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:36 | 雑記

父親

たいていの男なら、尊敬する人は誰ですか、という質問に父親と答える。
じつは自分そうなのだが、1人の大人としては尊敬するものの父親としては全く尊敬してない。むしろ反面教師として見ている。

以前にも書いたんだが、性懲りもなく尊敬する部分だけ集めて父親自慢をしてみる。

父は青森の極貧農家の次男として生まれた。
どれほど極貧かというと3男が里親に出されそうになったのを
父が泣きながら頼んで止めたらしい。

県内の有名公立高校に入学するも両親が農作業の手伝いばかりさせるので休学がちになる。余りにも腹を立てた父は、農作業中に母親に鎌を投げつけ(背中に刺さったそうな)家を飛び出した。そして親戚の家の納屋に住みながら高校に通った。

高校卒業後、上京する金もないので自衛隊に入隊。
このとき父親はアルバムに飾った写真の裏に一句残している。

十八の ○○○○(忘れてしまった)の岐路にたたずんで
死ぬはふるさと 生かばみやこへ

そして2年間、暗合士として北海道の駐屯地で勤務する。
ようやく有り金がたまって上京し、新宿西口の2畳部屋に下宿しながら小説家を志す。日雇い労働やガラス工場に働きながら売れない小説家となる。この時期にはバイトでポルノ小説も書いていたそうだ(素人童貞だったくせに生意気な)。名前は忘れたけど文学仲間には芥川賞を取った人がいたらしい。
文才の無さに気付いたのか、もしくは貧乏生活に嫌気がさしたのか、25歳で弁護士を志す。中央大学法学部の通信教育を受けながら昼は工場で働く。4年目で無事卒業したものの司法試験にはなかなか受からず、半年季節工としてダムの建設などで働き、残りの半年を試験勉強に当てるという生活を繰り返す。

そして卒業から5年目でようやく合格。研修先に東京を志望するも叶わず、京都に来る。当事下宿していた大家さんを通じて旅行に来ていた川崎出身の母親と出会う。服部精工の一般職で働いていた母親は、育ちがいいにも関わらず労働運動にのめり込んだ共産党員だった。お見合いのときに父が書いた貧乏句を見せられ結婚を承諾。今でも「弁護士だからって結婚したわけじゃないらね」と必死に弁解する。

その後、京都にそのまま事務所を構えた父親は水俣病、イタイイタイ病の関西被害者団の訴訟を受け持つ。そして前にも書いたようにヤクザの刑事弁護も引き受けるようになる。母親が初めて見に行った父親の公判が、首切り殺人犯の被疑者の弁護だったそうだ。

2人とも大家族に育ったせいか、お盛んに子供をポンポン5人も生む。
そして末っ子として自分が生まれてきた。


一度、父親に「お前は他の兄弟みたいに色んなところに遊びに連れて行ったりできなかったな」と言われたことがあった。昔は子供を連れて日帰り旅行によく行っていたらしい。赤ちゃんだったので全く記憶がない。でもたまに琵琶湖パラダイス(すでに倒産)に連れて行ってもらった記憶はある。

土日も休まず働くので、子供は全員小学校の低学年から少年野球に入り勝手に週末を過ごす。俺も小2で野球を始める。我が家の前には同志社大学の乗馬クラブのグランドがあった。日曜の夕方、父親が帰ってくるとそのグランドに入り込み、父がボールを投げ、俺が打ち、運動量しか自慢できない我が家のシェパードがボールを取りに行く、という自家製バッティングセンターをしていた。そして、このときからボール球に手を出す癖が付いた。これだけはいい思い出として残っている。

俺が小5の頃、ヤンキーをやっていた次男が恐喝で捕まった。
もし兄貴が少年院に送られれば事務所をたたむ、と言いながら(これは最近知った)父親が弁護した。幸いにも賠償だけで済み難を逃れる。
今でもたまに「あの時少年院に送ってやれば良かった」と愚痴をこぼす。

この時父親は論文を執筆していた。過去に自分が起こしてきた国賠訴訟を基にして、接見交通権(容疑者が捕まったときに弁護士との面会を保障する権利)に関する本を自費出版する。この本が認められてある大学から博士号を授与されることになったのだが、その審査に金を払うのが嫌という理由で断ったらしい。現在、博士課程でもがいている自分にとってはかなり腹立たしい。自慢するわけではないが、父親の本はうちの大学のロースクールの図書館にも置いてある。

65歳になった父親は今も現役。接見交通の件で国賠訴訟を起こすことを無二の楽しみにしている。容疑者の取調べの時点で弁護士が介入できるよう法改正されるまで現役を続けたいらしい。

しかし、さすがにボケてきたのか近頃ズーズー弁が戻ってくるようなった。東京に出張に来る父とよく築地に寿司を食いに行ったのだが、タクシーの運転手に「ちけず(築地)の○○しす屋(寿司屋)に行って下さい」と言い、「はぁ?」と聞きかえされた。あと、実家に帰ると父が大声で寝言を叫ぶのでよく起こされてしまう。夜中の3時に「どろぼー」と大声で叫ぶので、何事かと思い階下に行くと幸せそうに寝ていた。母親も隣で寝ているとよく寝ぼけて蹴られるので今は別の部屋で寝ているそうだ。さすがに年をとるとストレスが解消できないのかも。

両親は子供に勉強しろと一度も言わなかった。そのおかげで、日本の大学に普通に進学したのは5人の中で自分だけ。たまたま小学校のとき友達が塾に通い始め、バスの定期券に憧れて母親に頼んで塾に通わしてもらうようになった。他の4人がヤンキー街道を進むなか、只1人優等生として中学・高校を過ごす。

中学の校舎内には至るところに「○○参上」と兄弟の名前がスプレーで書いてあり、女子便所にまで姉貴の名前で○○参上と書いてあることを女友達から告げられ非常に恥ずかしい思いをした。先生方にも「またあの家から別のが来たか」とマークされていた。授業中に先輩のヤンキーが教室に入ってきて、「お前をヤンキーにせなお兄さん達に怒られるんや」と訳のわからんことを言われた。ヤンキーにはならん、という反骨精神のおかげで優等生になった、というのが正しいかも。ちなみに野球部ではキャプテンだった。

「勉強しろ」とは言われなかったものの父親は1つだけ口うるさく言ってきた。それは、「サラリーマンだけにはなるなよ」という訓戒だった。そんなこと言うから他の4人は勘違いしてヤンキーになったというのに。

大学時代はドキュメンタリーを作るか、大学院に進学するか、という選択肢しか考えてなかった。4年次になって周りの友達が大手企業から内定をもらいだし、俺がテレビ局を落ち続けていくと、さすがにもう他の業界も受けねばと焦り出した。

そこで仕事で来京した父に「しがないサラリーマンとして細く長く生きるわ」と打ち明けた。それに危機を感じた父は「おい、金を出してやるから司法試験の勉強してみないか?」といきなり切り出した。弁護士になれ、なんて初めて言われたので悩んだ。でも法学部にもう行かず手遅れだったので、代わりに大学院を受験するために卒業後の援助を少し出してもらうよう頼む。ただし、もし大学院に受かっても奨学金が出なければ就職、という前提で。

駄目もとでアメリカの大学院を6つ受け、運良くも2校から奨学金付きのオファーが来た。他に第1志望の大学があったのだが、受かったものの奨学金もでず、別の修士課程にまわされたので今の大学に決めた。

両親に合格を報告すると、母親は大喜びした。でも父親は「学者なんて机上の空論してるだけだぞ」とまだ未練たらしく愚痴っていた。そんなに息子を弁護士にしたかったのなら、もっと早くに英才教育を施せばよかったのに。

昔、父親と一緒に風呂に入ったときはいつも吉幾造の「おらこんな村やだ」を歌っていた。「テレビもねぇ、ラジオもねぇ、電話もなければ、未来もねぇ(だったかな?)」と俺は田舎を馬鹿にして歌ってたが父親にとっては全く別の意味だったんだろう。

こういう典型的昭和1ケタ代の父親を持つと嫌でも「何事も真面目にやれ。時間を無駄にするな。家を出て成功しろ。」という価値観を埋め込まれてしまう。兄貴達は真剣に、時間を無駄にせずヤンキーやっていた(次男は尾崎豊を真面目に見習い卒業式に校舎の窓を割っていった)だけで、俺はたまたま勉強という道に進んでいったんだと思う。

振り返ると、過去には色んな分岐点があり、どこでどの方向に進んでたかわかりやしない。ただ言えるのは、貧乏生活で培われた父の勤勉性がどの方向に行っても付き纏ってきたに違いない。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:31 | 雑記

Nightwork

六本木のホステスクラブでリサーチした人類学者の本がたまたま手元にあり、タイトルを勝手にいただいた。俺も夜行性だし昔銀座のクラブで働いてたから丁度いいか、という単純な思いつきで何も深い意味はない。

じつは、夜行性なために困っていることがある。

ロシア人のルームメイトが毎朝8時に起きて、歌いながら朝食を作るのだ。
俺の部屋のドアが密閉しないのでよく起こされてしまう。

まだ上手かったらいいものの彼は頗る音痴。

何故かナ行が連発するロシア語の歌を歌う。
「ニャシュカシニュネナ、シュコルシュニャー」
という具合に、歌っているのか唸っているのかよくわからんときが多い。

たまに「あ、これテトリスの歌や」と寝ぼけながらも判別できることがある。そして二度寝して見た夢にテトリスが出てきたりする。

困っているものの本人は気持ち良さそうなので文句も言えず、
テトリスの悪夢にうなされている。

話が変わるが、ユダヤ系である彼の祖父母は去年ボストンに移住してきた。

全く英語の話せないお祖母ちゃんが、よく電話をかけて来る。

「アリューシャ!!」と一言目に大声で叫ぶので、
留守を伝えるために片言のロシア語で、
「ネイ、アリューシャ!ネイ、アリューシャ!」
とこちらも叫び返す。

すると残念そうにロシア語でゴニョゴニョ言いながら英語の話せるお祖父さんに代わる。「こちらは彼の祖父だ。電話があったことを伝えておいてくれたまえ」、とお祖父さんがはっきりした英語で話す。

いつも同じパターンの繰り返しだったがこないだ変化があった。

毎度のようにお祖父さんに代わったあと、お祖母さんが「ちょっと私にも話しさせて」とロシア語で話しているようだった。すると、

「Fumi! I LOVE YOU!」

と大声で言ってくれた。戸惑いながらも、

「I love you, too, grandma」と笑いながら返した。

すると幸せそうにバイバイと言った後、彼女は電話を切った。

このことをルームメイトに話すと、
「最近英語学校に通いだしたので練習したかったんだろうね」
と言っていた。
「一度お宅にお邪魔してみたいな」と言うと、
彼は「喜んで手料理を作ってくれるから是非来なよ」と言ってくれた。

早く実現するといいな
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:28 | 雑記

文化人類学はすでに「死亡宣告を受けた学問」と言われている。


文化、親族関係という最も人類学を人類学たらしめていた論題が脱構築で崩れさり、参与観察という調査手段、民族誌という表現方法もむしろ虚偽の代名詞に変わった。

どれほどこの問題が深刻かという一例。

うちの学科長が授業中に「いったい人類学って何なの?誰か私に答えを教えて」と生徒に聞き出した。生徒の答えは、「最も多面的かつ文脈を重要視している学問」「他学科との接点を図るフレキシブルな学問」「サバルタンへのコミットを続ける学問」など。
でも学科長は「あの経済学出身の頭が固い学長に私がそんな答えを言って通用すると思う?うちの学科に当てられる経費は年々減ってるのよ。」と交渉役の辛さを暴露していた。

世界で最も有名な大学でこの有様だ。

大学院に進学するか悩んだ時期があった。

経済的な問題や就職の道が狭い、ということより人類学の孕む問題に対して全く答えが出なかったからだ。他者表出の暴力性、理論と暗喩、「体験」から「テキスト」への翻訳。何をするにしても不均衡な権力関係を構築することに繋がる。

まだ八百屋のおっさんのほうがましかも、と真剣に考えた。
しかし、背を向けた人生が楽しいか?と思い直し進学した。

学問とは何か、と自問するときいつも「合わせ鏡」を思い浮かべる。
合わせ鏡の間に立ち永遠と続く空間を凝視する姿勢こそが学問だ、と。

テーゼとアンチテーゼの弁証を続ける空間に立ち続ける。
決して目を逸らしてはいけない。
決して「○枚目に真実が映る」など信じてはいけない。
永遠の恐怖に思考を屈してはならない。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:27 | 文化人類学

5年前、寮の友達と朝まで幸せ論について話してた。

自己を他人と比べて客観視し始めた時点で人は不幸になる。ならば自分の好きなことが正しいと信じ込むのが幸せだ、とそいつは言った。

いや、それは違う。人は生まれ出た瞬間にある価値体系に埋め込まれてるのだから客観視というのは必然的に起こる。ならば、自己に絡み付いて来るしがらみにもまれながら存在意義を見出すことが幸せだ、と反論した。

村上春樹好きと大江健三郎好きの違い。
美人とセックスして虚無観に浸りながらも自己満足するか、年老いた娼婦の爛れたあそこを見つめながら人生の意義を見つけ出そうとするか。彼はサバサバした性格で俺は悶々とした性格。

当事お互い打ち込んでることがあった。彼は写真で俺は論文を書くこと。話をしているうちに彼は他人の評価が大事であることに気付き、俺は有名な論文の引用ばかりしてオリジナリティーの無さに気付いた。

そこで行き着いたのは、夢中になって成し遂げたことが他人に認められたら幸せなんだろう、と至極当たり前の結論だった。

一年後、2人とも留学した。彼はイタリアで写真を撮り続け、帰る間際に個展を開いた。俺はカナダの大学でできるだけ多くの社会理論を学び、日本に戻ってから卒論の現地調査で留学の成果を応用した。

結局、彼はコンピューター関連の仕事に普通に就職した。
ビールを飲みながら自家製スパゲッティーに舌鼓を打つ。写真は趣味として続け、日常の些細な変化に思考巡らす。まるで村上春樹の小説がモデルのように。

俺はアメリカの大学院に進学。新しい理論を嫌と言うほど習う毎日だが、自分の研究に目を移すとオリジナリティーの無さに愕然とする。論文を書いていると、あまりにも辛くて大江健三郎の「我らの時代」の一節を思い出す。「死が目前にあるのに自殺することができない、これぞ我らの時代!」

果たして彼と俺とはどちらが幸せなのだろうか?どちらが幸せになるのだろうか
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:25 | 雑記