カテゴリ:文化人類学( 155 )

マリノウスキー的状態

修士修了試験の問題の1つにこんなのがあった。

「人類学の発展は戦争の勃発に大きく影響されて来た。過去に起った
4つの戦争の例を挙げ、それに伴う人類学のパラダイムの変化を説明
しなさい。」

人類学をやっている人なら誰もが知っているのはマリノウスキーの例。
第一次世界大戦が勃発した頃、オーストラリア国籍を持つ彼はイギリスの
大学に所属していたが当時オーストラリアに調査に出かけていた。しかし、
敵国出身であるためにイギリスへの帰国が許されず、仕方が無いので
当時オーストラリアの領地であったパプアニューギニアのトロブリアンド島で
長期の調査を余儀なくされる。これが人類学でフィールドワークという
手法が”偶然にも”定着した理由だとされている。

どうやらこの話は過去の遺物ではなく現在も続いているようである。

http://www.thecrimson.com/article.aspx?ref=516819

イラク国籍を持つ学部の先輩が現在アメリカに帰るためのビザが発行されず
カナダで足止めを食らっているらしい。彼のパスポートは旧フセイン政権のときに
発行され、アメリカの移民局はそれを無効だとして入国を認めていない。そして、
もし再度ビザを発行して欲しいならば、イラクに戻って現政権の下で発行された
パスポートを取得するよう通告した。当たり前だがイラクに戻るのは不可能な話だ。

記事によると彼だけでなく新たに雇われたパキスタン国籍を持つ助教授もビザが
認められず、今もパキスタンで足止めされている。彼が受け持つことになっていた
今学期の授業はキャンセルされる可能性があるらしい。

同じ大学を卒業したアホな大統領のせいでこんなとばっちりを受けるとは。早く
彼らの状況が改善されるよう願って止まない。
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by fumiwakamatsu | 2007-02-09 10:35 | 文化人類学

使い道はある

先日記事を投稿した某雑誌が届く。パラパラ捲っていると他にも人類学者が
記事を書いていたりした(N沢S一さんとかね)。たしかにスローフードだとか、
ロハスだとか売り物にしているわけだから人類学者が呼ばれるのもわかる。

ようは、近代の矛盾を「高貴な蛮族」的ライフスタイルで解決しましょう!という
プロットさえあればいいのだろう。自然との調和、緩やかな時間の流れ、有機的な
人間関係、これらのイメージをどっかの「高貴な蛮族」や「過去の日本人」に投射して
現代人が苛まれている(とする)都会の喧噪や疎外化などと対比させる。そして、
「彼らに見習いましょう」、と声高々に歌えばそれでいいのである。おまけに、彼らの生活
に近づくために必要らしい高価な商品を宣伝しておけば儲かるわけだ。こう考えると、
魂さえ売ればちょっと人類学を齧った人ならいくらでも記事が書けそうな気がする。

「こりゃ金持ちの嗜みだわな〜」とつぶやきながらあっという間に読み終えてしまった。
レトルトカレーに納豆と卵とソースをぶち込んで食べている自分にはスローフード
など余りにも空疎に聞こえてしまうのである。期限が来る前にメガマックも食べねば。
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by fumiwakamatsu | 2007-01-25 00:20 | 文化人類学

地獄という救い

一度調べてみたいことがあります。

それは、どの宗教でも死後の世界を天国と地獄に二分化して想定しているのか、という疑問
です。自分の知りうる限り、キリスト教、イスラム教、仏教は確実に死後の世界が天国と地獄に
別れています。その他の宗教(ゾロアスター教、マニ教、幸福の科学、etc)等では一体どうな
のでしょうか?おそらく天国と地獄という二分化はほとんどの宗教で想定されているのだと推測
します。

ここで面白いのは「なぜ地獄が必要か?」ということです。なぜ天国だけがあると想像できない
のでしょうか?死んだ人は全員天国に行けると仮定してはいけないんでしょうか?その疑問に
答えるために人類学的に色んな仮説を立ててみると、

1)機能主義的説明
「悪い行いをすると地獄に落ちるぞ!」と小さい頃に言われましたよね?つまり、天国に行けるた
めの条件を設定することによって、行為や言動を律する道徳的規範として社会に秩序をもたら
す機能がある。

2)政治経済的・唯物主義的説明
植民地化と宣教が結びついていたように、宗教というのは各時代の権力と密接に関連して来
たものです。「そんな宗教を信じていたら地獄に行くぞ!」と他の宗教を信じる弱者に対して迫
ることで改宗させ、権力・富を持った宗教集団に隷属させるイデオロギーとして役立った。

3)構造主義的説明
「天国」という言葉から想像されるものの良さは「地獄」という対にある言葉が併存しないと想像
できないですよね(逆も然り)?従って、認識の二項対立的な構造によって、「天国」「地獄」とい
う対になる2つの言葉がセットになっていないと、一方の意味を想定できない。

などが、仮定されます。

しかし、個人的にはこう思います。

地獄という考えはむしろ救いだ、と。地獄という場所では釜に煮付けられたり様々な肉体的・精
神的苦しみを被る羽目になっています。しかし、そこにはまだ生前と同じような「自己」が想定
されています。地獄で苦しみを被るということは、生前と同じように身体や感覚や意識がある
「自己」の存在が前提でないとその苦しみを味わうことはできません。このように、例え苦しくて
も「自己」が残るという地獄の想像は、逆に、もっと恐ろしい現実(ラカン的に言うリアル)を抑圧
しているのです。それは、死によってもたらされる完全なる自己の消滅です。無の恐怖です。
無の恐怖に比べると、針山や鬼の拷問など可愛いものだと思うのです。

というわけで、いつか機会があれば「地獄思想の比較研究」でもやってみたいです。
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by fumiwakamatsu | 2007-01-23 01:06 | 文化人類学

「ようはこういうことなんだろう」という説明への徹底的対抗

「人類学実践の再構築:ポストコロニアル的転回以後」を再読。

以前にもこの本を読んでいたのだが、これほど人類学の限界とそれを超えるための
挑戦を明確かつ前面に出した本は英語の文献を含めてないように思える。どの論文も
読み応えがあって面白い。しかし、その中でとりわけ浜本先生の論文が異彩を放って
いる。というのも、ほとんどの著者が自らのフィールドワークを顧みずに、理論的・抽象的に
人類学の限界・挑戦について語っているのに対し、浜本先生は御自身のフィールドで得た
具体的データを前面に出して語られている。これは非常に重要なことだと思う。

例えば、「異種混合性」や「脱領域化」という概念だけ論じたところで、実際、人類学者が
接する人々は、未だに民族主義的であったり土着的であったり、抽象的な概念が示す
方向性とは逆行していたりするケースが多いからだ。どれだけ理論的にある問題を乗り越え、
新たな方向性を示したところで、実際に我々の接する人々が同じような方向性に向かって
いるかは、調査で得られた具体的データに「語らせる」しかない。演繹法の罠にはまることが
最も許されないのが人類学の醍醐味であり、浜本先生の論文はそれを実践している。

浜本先生の主題は差異を語ることの中に潜む誤謬である。我々が差異を語るときは
隠喩的に表示するしかない。例えば、「アライグマ」という動物を全く知らない人に
対してそれがどんな動物かを説明するには「狸」に似た動物というように伝えるしか
ない。しかし、このような「アライグマ」と「狸」という対比に沿って隠喩的に語る
のは、「動物」さらには「哺乳類」という”普遍的”と思っている概念、もしくは
定規のようなものの上で、違いの”程度”を測ることができるという前提に立って
いる。つまり、AとBを対比して差異について語るときは、その異いを測ること
ができる何かしら共通の土台があることを前提としており、その前提が真実だと思い
こんでいる限りは結局のところ何も差異について語っていないのである。それが
浜本先生の仰る誤謬だと思える。そして人類学者はよくこの誤謬を犯してしまう。

具体的に浜本先生はケニア沿岸地域のドュルマ人の間で、自分たちの振る舞いを
説明する際に「キドュルマ」という言葉を使って説明している事象を取り上げて
いる。ここでその内容は詳しく書かないけれども、浜本先生はそのキドュルマと
いう言葉であるものごとの因果関係を説明するときの語り方は、我々の合理性の
範疇で想定する因果関係の説明とはどうしても異なる部分を前面に出している。
そして、ではドュルマの人達の合理性はどのようなものであるか、という答えを
断定的に出すようなことはせず、徹底的に本当の意味での差異に向き合っておら
れる。逆に浜本先生は、なぜ差異を語るときにある共通の土台なり定規があてはまる
と考えるのか、というさらに厳しい問いを読者に向かって投げかけておられる。

正直なところ、浜本先生のように「ようはこういうことなんだろう」という短絡的な
考え方に徹底して対抗するべき、というような教育はあまり受けてこなかった。
どうしても自分を含めて周りの院生は「理論的に何が新しいことを言えるのか」、
もしくは「今まで取り上げなかった新たな事象(例、医療問題、移民など)を
説明するための理論的な枠組みは何か」ということばかりに意識を集中して
しまっている気がする。「わからない」「説明がつかない」ものを素直に認め、
そのわからないものを創り上げている「差異」に対して徹底的に向き合う姿勢を
忘れている。従って、浜本先生の論文は自分にとっては素晴らしい戒めだった。

ただ、今自分がやっている研究を顧みて言えば、「西洋的自己」と対極にあるような
集団や事象(例えばアフリカの妖術、魔術、宗教儀礼など)にだけ差異を求めるので
はなく、「西洋的自己」と全く同化しようする、つまり自らの行為・思考が「西洋的
自己」と共通する「普遍的」な行為・思考と思っているような集団や事象の中にも
逆に差異、もしくはエキゾチックなものがあるのではないか、と思う。だから自分は
科学に焦点を当てている。しかし、あると思ってやっていてもまだ「説明しきれ
ないもの」にぶち当たっていない。科学というものは説明しきれないものを合理的に
説明しようとする営為なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。それでも、
とりあえず、あると思ってやっている。なんだか、最後は辻褄が合わなくなってきた
けれども、ようは「フィールドワークをちゃんとしろ」ということなのだ。
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by fumiwakamatsu | 2007-01-15 02:28 | 文化人類学

希望について

宝くじを買い続けている人がいるとします。

1等が当たる確率というのは限りなくゼロに近いです。また、例え配当金の低い賞が当たった
としても今まで買って来た宝くじの損額を取り戻ることは大抵できません。つまり、宝くじを買い
続けることで確実に損を出し続けることになります。その不合理はおそらく買っている人が最も
良くわかっているはずです。わかってはいるけどやめられないはずなのです。

では何故やめられないのか?

それは買い続けることによって「いつかは1等が当たる」という希望を想像し続けることができる
からでしょう。つまり、「買い続ける」という行為の連続によって出て来る想像が、損をするという
合理的な考えを上回っているのだと思います。逆に、損だからという理由で買うという行為を
止めてしまうと、「いつかは1等が当たる」という希望を想像できなくなってしまいます。行為を
止めると無に転落してしまいます。

じつは「希望」についてのある論文を読み返していたのですが、どうもしっくりきません。
その論文の中では「希望」を分析概念として捉えているわけではなく、調査対象者の「希望」
のあり方を人類学への批判的鏡とすることを主な目的としているので、詳細には「希望」
とは何かと書かれていません。しかし、希望は知識の再配置(relocation of knowledge)
を続けることにより起る、つまりある分野への取り組みが失敗に終われば新たな別の分野への
知識の応用へと転換をすることによって、希望が生じる、という論調で書かれています。

ここで使われている知識という言葉が少し漠然としており、自分が勘違いしているだけなの
かもしれませんが、どうも「知識の再配置」と言うと、予め作られた考えや思想なりが前提と
してあり、それを1つの分野から別の分野へと応用していく、言わば上から下へと動くような
感じがします。しかし、上で宝くじの例を用いたように、希望とは行為の連続から出て来る
想像のようなものであり、その行為を途絶えてしまうと想像が無に帰すので止められない
状況で出て来る、言わばもっと下から上への動きだと思うのです。「知識」と「想像」という
言葉に違いがあるので、上手く比較できませんが、どうもその論文を読んでいて行為の連続
から来る想像に焦点が当てられていないと思いました。
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by fumiwakamatsu | 2006-12-23 02:51 | 文化人類学

アイディア枯渇

じつは先日拝聴した某討論会についてレポートを書くよう頼まれたのですが、
思っていたよりも遥かに苦戦しております。期日は今月中なものの、まだ日本語に
自信がないため、先週までには初稿を出してコメントを頂こうと思っておりました。それが
風邪を引いたのもあるのですが、気付いたら何も書けないまま今に至っております。
苦戦している理由は、まず初めて書く形式のレポートなので、どう構成を練れば良いか
わからず、また、部外者なのでどこまで内容を批評をすれば良いのかわからないからです。
うーん、どうしたものか。各論者の発表内容はまとまりましたが、それ以上何を書けば
よいかがわかりません。おそらく依頼者側としてはアメリカでの経験と比較した上での
新たな視点を求められているのかと思います。しかし、討論の議題が特殊なのもあり
比較できる点が見つかりません。会場や懇親会の雰囲気くらいなら比較できるんですが、
それでいいのかなぁ。アイディア枯渇中です。
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by fumiwakamatsu | 2006-12-21 00:53 | 文化人類学

じつは本当の話なんだよ、というオチ

「モーターサイクルダイアリーズ」と「シティオブゴッド」。

ふと、昔見たこの2つの映画のことを思い出しました。この2つの映画、映像の構成が
たまらなく格好いいのは御承知の通りですが、もう1つ共通点があります。それは、映画の
ストーリをフィクションだと思わせておきながら最後のエンディングカットのところで、
「え、これ本当の話だったの?」と実在の出来事だと裏付ける映像を載せているのです。

例えば、「モーターサイクルダイアリーズ」ではゲバラと友人のアルベルトが一文無しで
ある南米の町に辿り着き、たしか巡業の医者だと偽って新聞に載り、一時のお金を得る
シーンがあります。そして最後に実際そのときに載せられた新聞の記事が出て来ます。
また、「シティオブゴッド」では、スラム街で抗争するマフィアのリーダー格の男が
刑務所から出所するときにテレビでインタビューされます。あまりにも血なま臭い内容の
ストーリーなのでフィクションだと決め込んで見てましたが、これもエンディングカットの
部分で実際にインタビューされていたときの映像が流れます。

この意外性の出し方が上手い。同じようなことを民族誌でも出来ないかな、とふと
考えておりました。99%、これはフィクションなんだ、という物語的書き方をして、最後に
「じつは本当の話だったんだよ」というオチを付ける。格好いいじゃないですか?でも
ドラマ性のある場でフィールドワークすること自体がものすごく難しい話ですわな。
それに民族誌だと読者も”真実”だと想定して読んでますので、同じ効果を期待する
のは無理ですかね。小説でしか無理かな。でもやってみたい。

さきほどネットで調べたら、じつはこの2つの映画、同じ人が監督したり総合指揮を
してました。どうりで映像もオチも格好いいわけですな。
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by fumiwakamatsu | 2006-12-19 01:50 | 文化人類学

歴史家は格が違う

相変わらず歴史資料を某水産系大学で漁る毎日です。

歴史人類学を専門としている人類学者以外は、大抵、関心のある現在進行形の事象が
過去からどう起って来たか、という程度にしか歴史を調べようとしません。つまり、過去の
ある時期にあった現象が、それより前の過去よりいかに起って来たか、という作業はいう
ほどしません。しかし、歴史家はそういう作業をします。そして文献だけに頼りながらも、
過去の時期にあった現象を”再現”するように物語を記述していきます。

これは思っているよりもはるかに難しい作業です。と言うのも、ある過去の時点で書かれた
一次的資料が見つかったとしても、その作者はどういう人物なのか、一体どういう状況で
書かれていたのか、そして書かれている意見なり主張なりが実際どういう政策的な実践に
結びついたのか、つまりその当時の時代背景を総て把握した上でないと、その一次的資料
が意味を持たないからです。詳細な時代背景を自ら調べていくとなると文献採集は延々と
続いていきます。自分のような素人にはそのような能力と根気がなく、結局はそのような
時代背景を説明できている二次的資料に頼らざるを得ません。しかし、二次的資料を
超えた範囲で過去のある現象を説明する必要があるとお手上げとしか言いようがないです。

従って、もう何週間も1910−1930年代の資料を漁るだけになっています。本当は他の時代
の事象にも移りたいのですが、資料不足もあり”裏”がなかなか取れません。歴史家は”裏”
を取る作業をどうやっているのか、本当に不思議で仕方ありません。「この当時にフィールド
ワークをしていた人類学者の民族誌でも見つかればなあ」と思う事しきりです。
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by fumiwakamatsu | 2006-12-14 00:10 | 文化人類学

キャンセル

昨日書いたクリフォードの講演の件ですが、どうやら急遽来日することができなくなり
中止となったそうです。このブログを見て行こうと考えておられた方々、すいませんでした。
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by fumiwakamatsu | 2006-12-11 22:43 | 文化人類学

知らなかったのですが

今週の水曜日にジェームズ・クリフォードが東京で講演するそうです。

http://www.i-house.or.jp/jp/ProgramActivities/academy/index.htm

全く関係ない話なのですが、先日、友人ととある水族館に行って参りました。

そこには鯨の骨格の標本が天井から吊り下げてあり、それを見ながら
「ああ、あれはセミクジラやな。泳ぐのが他と比べると遅くて、殺した後も
体が浮くから日本の沿岸で昔から良く獲られてたんよ」と、口にしました。
その後友人は「なんで骨見ただけで種類がわかるの?」と聞いてきました。
「いや、体全体と比較して手鰭が以上に大きいのと、頭の部分がずんぐり
丸くなってるでしょ?」と答えると「でしょ?とか言われても知らないから」と
言われました。説明を読むと確かにセミクジラでありました。

これがgoing nativeというやつなのでしょうか?研究で鯨の骨格標本を
文献や博物館などで見ているので、骨だけ見て大体どの種類か特定できる
ようになってきました。EPがアザンデの妖術を研究していたときは、夜中に
火の玉が通り過ぎるのを確かに見た、と記述しておりましたが、調査対象者の
認識枠組みが移入されてくると普通の人が見えないものが、徐々に見えて
くるようになるものなのでしょうか?人類学者の方々は本当は色んなものが
見えているけれども、それを口にすると一般人に引かれるから口にしていない
だけなのかもしれません。
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by fumiwakamatsu | 2006-12-10 23:06 | 文化人類学