カテゴリ:文化人類学( 155 )

Post Modern Christian: Love Your Enemy (except post modernists)

去年、1年間、とある事情でプロテスタント系の教会に行っていた。
行きたくて行っていたのではないが、とりあえず行っていた。もちろん
教義自体は最後まで何の関心も持てなかった。しかし、今から考えると、
これまで全く関わったことのない世界を垣間見れたのは良かったと思う。

その教会はハーバードとMITの丁度真ん中にある小規模な教会だった。
当時の神父さんが韓国系アメリカ人だったせいか、信者の方々はアジア系が
大半を占める。地理的な場所が示すように、その多くが高い教育を受け、
エネルギーに満ちた若者だった。毎週のように、信者の方々が行う慈善事業や、
宣教活動が神父の説教が始まる前に紹介されていた。

さて、知り合いも増えてくるうちに、1つのネガティブな言葉が良く出て来るのに
気付いた。それは「ポストモダニスト」。たとえアメリカでも普段の会話ではそう出て
来る単語ではない。やはり教養の高い信者さんが多いせいか、そんな単語が容易に
出て来るのだろう。個人的には一体誰がポストモダニストなのか定義出来たものでは
ないが(定義するという行為自体がポストモダンではないと思うが)、どうやら信者の
方々からすれば普遍性、真理、原理、そして、おそらくそれらの言葉に象徴される
神の存在を否定する人々のようだ。「無神論者」ではなく「ポストモダニスト」という
言葉を多用していたのが興味深かった。

ある友人に誘われて見習いの若い神父さんの家で夕食に招かれたことがあった。
白人の彼は、ある大学の神学部の博士課程に所属し、大学と教会を又にかけ、
さらには2児の父でもあった。お互い院生ということもあり、話が少し学問的になる。
そこで彼は最近の神学部でのトレンドに対して溜め息混じりにこう語る。

「どうやら周りは皆ポストモダニストのようで、些細な物事の研究ばかりしている。
大きなスケールで物事を考えて、自分の研究がどう社会に役立つか考えようと
しない。そういや人類学でもギアツなんかはポストモダニストじゃないの?」

ギアツがポストモダニストなんて初めて聞いたけど、どうやら彼の知識では上の
定義に当てはまる人類学者のようだった。その後も、別に学問の文脈だけでなく、
何度か否定的に「ポストモダニスト」という言葉が出て来た。

宴もたけなわになって来た頃、一緒に来ていた友人が「今の教会の信者の人達に
とって必要なことは何ですか?」という質問を彼に投げかけた。当時はその教会が
少し危機を迎えていたので聞いた質問なのだが、彼の答えは「僕は皆にただ単純に
お互いを愛するようになって欲しい」と答えていた。普遍的な隣人愛を態度で示す
ようにという意味合いなのだろう。その答えを聞いたときに「もし教会の中に
ポストモダニストがいれば、その人を愛することができますか?」という質問を投げかけ
ようかと思ったが、客人として場の雰囲気を壊すのも嫌なので止めておいた。

「普遍的な」言明から内在した矛盾が起るというのがポストモダン的現象の1つで
あるとすれば、彼は非常にポストモダン的だと関心したのを覚えている。
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by fumiwakamatsu | 2007-03-14 00:36 | 文化人類学

Post-ecological commodity fetishism

捏造された映像を用い、後に放送を中止されたコスモ石油のCMがあった。

そのCMはパプアニューギニアでの森林火災の映像で始まる。そして、それは焼き畑農業によって起っているというナレーションが入る。その後に当社が社会事業として行っている米の栽培方法を紹介する。最後には苗を抱え、微笑む青年の姿が映し出される。

無知なため焼き畑農業で生計を立てていた現地人が、我々の稲作事業で環境破壊からも飢えからも逃れることができる、というメッセージである。

このCMを見た時点で明らかに2つの点でおかしいと思った。

1つは焼き畑農業では、おそらく山火事に繋がるような大規模な火災は起らない。昔、人類学入門の授業で見た焼き畑農業の映像では、まず周りに飛び火しないように耕地となる土地の木は伐採される。そして奈良の山焼きのように、雑草だけとなった土地をプスプスと焼くだけである。地面の下に堆積された枯れ葉が半化石燃料となったものに引火して火が大きくなるならわかるが、そんな場所にはまず最初に畑を耕そうともしないだろう。

2つ目に、稲作を習っている人々はパプアニューギニアの高地に住む人々とは全く関連がないはずである。常識で考えればわかるが、稲作などできそうにもない急な斜面の山々で、わざわざ開墾して田んぼを作るなどあり得ない話である。おそらく稲作事業を受けている人々は低地の平らな土地に住む人々であって、焼き畑農業など最初から営んでいなかったはずである。

結局、どこかのNGO団体が1つめの虚偽性を指摘し、コスモ石油も捏造を認めたそうだ。焼き畑による火事とされたものは南米のどこかで起った山火事の映像だった。なぜ自らの社会事業をアピールするために「森林破壊を起こす無知な現地人」を作り出さなければいけなかったのだろうか。

まず考えられるのは、環境破壊の元凶として批判の的になる石油会社が、自らのネガティブなイメージを払拭するために、恰も啓蒙的な立場で環境の悪化を防いでいるというポジティブなイメージを作り上げたかったという点だ。その啓蒙的な筋書きを作るためには、「無知な現地人」を演じる役者が不可欠だった。そこで稲作事業とは全く関連のない焼き畑農業者に架空の罪を被せ、コスモ石油自体は正義のヒーローと成り得た。

しかし、それより重要なのは、このCMが消費者である日本人になぜ受け入れられるか、という点を考えるべきだと思う。

80年代以降、大機企業による第三国での環境破壊が取り上げられるようになったが、間接的であれ、消費という形でその連鎖に取り組まれている人々は幾ばくか罪の意識を負っている。しかし、企業が「環境に優しい」社会事業に取り組んでいるならば、その企業の商品を消費すると罪を逃れることができる気分を味わえる、いわば贖罪効果があるのだろう。環境保全を謳うことによって、企業は自らの対外イメージと商品価値を高めることができ、消費者は贖罪気分を味わえ、一石二鳥な「商品の物神崇拝」が起っていると思える。

と、まあ、こてこてマルキスト的に解釈してみました。なぜこんなことを考えるようになったかと言うと、こないだ100円ショップで買って来たシャンプーに「環境に優しいナチュラルシャンプー」などと銘打ってあったのです。

「エコ」「ナチュラル」「持続可能性」などと、最近環境に優しいイメージを想起する言葉が溢れていますが、それらが商品にくっつけられているとき、一体それはただの言葉だけなのかどうか、と疑ってみるのも悪くはないと思います。
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by fumiwakamatsu | 2007-03-13 02:03 | 文化人類学

そういや昔は

「Kiaora.」

「Kiaora.」

「Keite pehea koe?」

「Kete pai ahau.」

「Kara tite tima mihi?」

と、いきなり書いてみましたが、これ、覚えている限りのマオリ語です。

訳すと「こんにちは」「お元気ですか?」「元気です」「今何時ですか?」という
具合です。高校1年のときニュージーランドで3ヶ月の短期留学をしてました。
そして、マオリ語の授業を取ってました。当時はもう少し複雑なことも
言えたと思いますが、もう忘れてしまいました。今人類学をやっているのは
当時の経験から来ている、と言えば格好いいですが、全然そんなことありません。
ただ「高貴な蛮族」や「自然」のイメージに憧れて取っていただけです。

しかし、あの授業で味わったカルチャーショックを思い出すと楽しくなります。

例えば、ある日、どっかの氏族の長老のような人が授業を訪問しに来ました。
マオリ族では歌と踊りで客人をもてなすものだ、とマオリの先生に言われ、生徒達が
覚えたてのものを披露することになりました。おそらく教育番組でよくやっている
「あいうえおのうた」的に幼稚な歌を皆で歌い、それを険しい顔で長老が聞くという
シュールな光景でした。しかも、その後、生徒の1人1人が長老と直接挨拶しなければ
なりません。それは「Kiaora」と挨拶を交わし、お互いの鼻をくっつけるという形式でした。
でも、その太った長老は、油ギッシュで、鼻が低く、しかも、唇が盛り上がっていて、
下手したら口まで着いてしまうんじゃねえか?と生徒皆であわてふためいてました。
何とか顎を引いて、鼻の先だけちょこんと合わすように頑張ったのを覚えてます。

こう考えるとカルチャーショックの経験を基にして研究するというオーソドックスな
人類学的調査をする方が楽しかっただろうな、と思ったりします。大学2年くらい
までは絶対日本国外に行って研究しようと意気込んでました。将来の調査地を探す
目的も兼ねてタイ、ネパール、インドネシアなどを旅行していたのですが。それが
気付けば日本で引きこもりながら研究する羽目に。うーん、どこで道を外したんでしょう。
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by fumiwakamatsu | 2007-03-08 01:43 | 文化人類学

近代の狭間で

アミタヴ・ゴッシュという人類学者になるのを止めて小説を書き出したインド人の作家がいる。
彼の代表的な作品が「In an Antique Land」。この物語は実際彼が行ったエジプトでの
フィールドワークの経験と17世紀にポルトガル商人に奴隷として雇われたインド人の歴史を
追う2つの全く文脈の異なる粗筋から成り立っている。

さて、彼がエジプトのとある村でフィールドワークをしていたときの話。人類学者というと普通は
白人であるが、ゴッシュはインド人であったため、村人達は逆にインドについて興味を示し、
色んな質問を投げかけて行く。「インド人は豚を食べるくせに牛は食べないって本当か?
なんで牛を神様のように扱うの?」という具合に。いつも質問攻めで思うように調査は進まず、
彼はストレスを溜めて行く。

その村の中で、彼は感じの悪いムスリムの聖職者と出会うことになる。その老人は初対面の
ときからヒンドュー教徒である彼を見下し、無礼な扱いをしていた。そして、ある日、別の
知り合いに会うために村のモスクの入り口で礼拝が終わるのを待っていたところ、彼は再度
この老人と出くわす。知り合いと会話しているにも関わらず、老人はわざと聞こえるように周り
の村人に「あのインド人は牛を信仰しているんだ」と悪口を言いふらす。

頭に来たゴッシュはとうとう老人と口論になる。

「私はたしかにヒンドュー教徒だが、これでもオックスフォードで教育を受けてここに
調査に来ているんだ。」

「ふん、だから何じゃ。どんな教育を受けようと牛を崇拝して豚を食べるなんて
野蛮な証じゃあないか。」

「宗教は違えど、インドはエジプトよりかも近代化している。あんたが知らないだけだ。」

「近代化じゃと?インドにもエジプトのように大きなダムや強い軍隊があるとでも言うのかね?」

「インドは核兵器を持てるほど近代化してるんだ!エジプトなんて核兵器すら作れない
未開な国じゃないか!」

こう言ってしまった後でゴッシュは我に返る。核兵器という最も野蛮で恐ろしい近代の負の遺産
を自慢して、どれだけ自国が近代化しているか誇ってしまうとは。そして、長くに渡りイギリス
の植民地であった2国の人間同士が、なぜ相手がどれだけ野蛮か競い合って証明しようとす
るのか、と。

おそらくゴッシュはこの体験があったからこそ人類学者ではなく作家の道を選んだのではないかと思う。
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by fumiwakamatsu | 2007-03-04 22:56 | 文化人類学

逃避できない現実

インタビューが出来る週と出来ない週がはっきり別れて来た。

周りの研究者達と話をしていると、つい一ヶ月前までは中々
フィールドに入り込めずに悩んでいたが、皆、希望の場所で
働き出したり、雪だるま式にインフォーマントを紹介して貰え
たりと波に乗っている。そしていつ帰国するか、という話も
ちらほら聞こえて来る。それに比べ自分の場合はもう焦るという
こともできず、一体この後何を博論に書けることがあるのか、
わからずに途方に暮れている。幸いながら節制が功を奏し、
お金はまだ何とかなるが、果たしてこのまま日本にいても
何も変わらないのじゃないか、という不安を感じる。ああ、
昔から思い描いていたフィールドワークの現実がこんなもの
だったとは。もう少し格好いい姿があったはずなのに。
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by fumiwakamatsu | 2007-03-03 22:08 | 文化人類学

Being homeless as an anthropologist

Caton talks of the peculiar homelessness of the anthropologist.

"That’s a very deep personal strain in a lot of anthropologists. They talk about not feeling quite at home in their own culture, and that’s why they go outside to another culture. But when they come back, they can’t ‘go home.’ They’re now even more different than they were leaving it."

Somewhat like Lawrence, the tribe-less man in Arabia, Caton puzzles over defining his cultural identity.

"I see myself as someone who’s engaged in a number of different political and intellectual projects. And this has certain effects, but I don’t see them cohering into a narrative where I can say, this is Steve Caton. When I look back on who I was, or where I’ve been, or where I’ve come from, I can’t give any kind of coherent narrative. Nor do I wish to."
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by fumiwakamatsu | 2007-02-27 01:47 | 文化人類学

発表終了

さきほど無事某場所での発表終了。なんともみそ糞でした。
個人的には矛盾しているようなネタをふって笑いをと取ろうと
思ってたのですが、用意した原稿をただ読み上げていた
せいもあり、まったく滑りっぱなしでした。指導教官と話していた
ときは受けてたのにな。まあ、何にせよたまっていたデータを
まとめる作業が出来たのが一番良かったです。ああ、しかし、
発表すると自分の研究が客観視できて、いかに浅はかかが
わかるので情けなくなります。情けなさを軽減するために
フィールドワークを精進せねば。
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by fumiwakamatsu | 2007-02-24 19:13 | 文化人類学

パチンコと研究

来週、ある研究会で発表することになっているのだが、全く何も構想が立っていない。
だが、漠然と考えていることを比喩で喩えるならパチンコである。パチンコというのは、
飛ばした玉を、板に空けられた穴の中に入れればさらに多くの玉が見返りとして戻り、
換金出来る。そして、どの穴にも入らないまま玉が下に落ちると何の見返りもない。
パチンコは一度しかしたことないので、詳しくしらないけど、これが基本的なルールだと思う。

自分の研究と重ねるとこうなる。あるグループは、穴が幾つもあるパチンコ台を自ら作り
出した。しかし、パチンコをしているうちに玉もどんどん減って行き、別にもう手持ちの玉を
増やして換金する必要もなくなったので、パチンコ台の穴を全て閉じようと言い出す。玉は
少ないながらもひたすら打上がりただ下に落ちて行くだけとなる。が、後からこのパチンコに
参加してきたグループがある。そのグループは手持ちの玉を増やして換金したいので、穴を
塞ごうとするのを止めようとする。むしろ自ら穴を作り出してより多くの玉が入るようにしたい。
しかし、パチンコ台を作ったのはそもそも最初のグループである。だから最初のグループに
習ってパチンコがどういう仕組みで成り立っており、どうすれば穴が空くのかを知らなければ
いけない。従って、その知識を取り入れながらも、なぜ穴を増やそうとするのか、なぜ
穴を空けるのが正しいことなのか必死になって相手のグループと、同グループ内のメン
バーに説得して行かなければならない。そしてパチンコ台の知識をほぼ吸収し終えた今で
は、反発はあるものの、かろうじで1つの穴を塞がずに保っているという状況になっている。

こんな感じのことを120年もの歴史を遡りながら話そうと思う。先攻研究では、パチンコ台を
作った側が鶴の一声で穴を塞げと言えばそれで塞がり、もっとパチンコをしていたいながらも
パチンコ台の知識のない人は黙っちまう、というものがほとんどである。しかし、自分の研究は
必死になって穴に入れたり、穴を作ろうとしている人達の物語になる。どうすれば玉が効率よく
穴に入るか、どうすれば玉の換金率が変わるか、どうすれば穴を作れるか、新たに穴を作る
にはどんな穴がいいか、そんな感じだ。しかし、そもそもこの物語自体がどんな人類学的な
意義があるのかまだわからない。今の所は「換骨奪胎的流用による抵抗」だとか「戦略」など
の月並みな表現で収まってしまいそうで情けなくなる。そんな月並みな表現に頼らずにもっと
面白くしたい。面白くするにはどこに焦点絞って、どう新たにフレーミングすればいいですかね、
ということを研究会に来る人達に聞いてみたい。
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by fumiwakamatsu | 2007-02-18 19:02 | 文化人類学

血生臭い

今日は早朝からひたすらある肉を切る。肉を切り、肉を切り、肉を切り、肉を切り、、、。
楽しい。参与観察している実感ができて楽しい。でも手が血生臭い。石鹸使ってもまだ臭い。
そして、帰宅して新聞のサイトを見ると本当に参与観察したい場所では人が死んでいた。
ひょっとすると以前とある場所で亡くなった方を見かけたかもしれない。いや見ただろう。

誰だか知らないが、ご冥福をお祈りしたい。

これだけ読んでると一体どんな研究をしているんだ、と思われているに違いない。
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by fumiwakamatsu | 2007-02-17 23:20 | 文化人類学

キーワード

インタビューが続くにつれてちょっと気にるキーワードが浮かんで来た。

それはアイロニーだ。最近話す人が誰も彼も皮肉屋なのである。お互い建前で
話しているということを了承しながら、さらにその建前を大袈裟にして皮肉に物事を
語る状況に出くわす事が多い。あたかも語っている対象については再帰的な距離を
保ち、皮肉な態度を取っているのに、それでも建前は崩さないという状況である。

皮肉に建前が崩せないのは何か隠し事をしているから、とか、あるイデオロギーに
対して距離を置いているからという訳ではなく、皮肉になりながらも一定の発話
ポジションでしか語ることのできない状況に置かれているというのが正確な見方だ
と思う。先日、校正させて頂いたTさんの論文にはキューバにおける皮肉な語りに
ついて見事にこの点を指摘されていた。理念的な希望とそれをなし崩す物質的・
現実的な困難という二重的拘束に挟まれた不安から生じる皮肉な語りをTさん
の論文はせつなさを伴いながら描いていた。今、自分が調査で出会っている状況は
キューバの状況とは大きく異なるけど、皮肉になりながらも一定の発話ポジションに
置かれてしまうという点では似ているように思う。ではその発話ポジションに置かれて
ている状況は何なのだろうか、という点に焦点を当てて語りの意味を捉え直したほうが
よいのだろう。

もっと簡単に言えばイデオロギーというのは、それを発する側も受け取る側も疲労を招く
というのが前提なのだろう。かと言って皮肉をポストイデオロギー的な状況にいる主体と
して想定するのも馬鹿げたことである。昔ブログにも載せたジジェクのトイレの話のように、
「身体から出る不快な排泄物に否応にも関わらせる」という逃れたくても逃れられない装置
のような中で、どう皮肉になっているのか、と言うのが重要な点だと思える。

という訳で、どなたかアイロニーについての論文をご存知でしたら教えて下さい。
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by fumiwakamatsu | 2007-02-10 01:25 | 文化人類学