カテゴリ:文化人類学( 155 )

鳥葬

今日、ある方と食事をしながらインタビューをしていると、何故かその人がチベットを旅行したと
きに見た鳥葬の話になった。死んだ人物をぶつ切りにして、鷹に食わせて葬るというやつであ
る。

ある村から少し離れた山の中腹に1人の葬儀屋が住んでいるそうだ。死者の家族はそこまで死
体を持って行き、目の前で鉈でぶつ切りにされるという。そしてミンチのように砕けた肉を山の頂
きに置く。葬儀屋が空に向かって「ピューッ」と口笛で合図を送ると、どこからともなく鷹が舞い降
りて来て肉をついばむ。別に全ての肉を食いきるわけでなく、鷹の腹が膨れて飛び去ってしまっ
た時点で終了らしい。家族はその一部始終を見守るという。

その人は遠くから眺めていたものの、そのとき赤い派手なジャケットを着ていたせいで、鷹も警
戒していたのかなかなか降りてこなかったらしい。後で死者の家族から怒られたそうだ。

しかし、例え鳥葬すると輪廻から逃れることができるとは言え、今まで一緒にいた肉親がぶつ切
りにされ、鷹に食われるのを見届ける心境とはどんなものなんだろう。ぶつ切りになった時点で
モノとしてしか見えなくなるのだろうか?逆にそうすることで死の悲しみを乗り越えているのだろ
うか?
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:29 | 文化人類学

ある終戦の歴史

今日サンパウロの日系ブラジル人を研究している方と話をしていて、面白いことを聞いた。

第二次世界大戦中、日系ブラジル達は、ブラジルが連合国側についているにも関わらず、熱烈
に日本を支持していたと言う。しかし、もちろん祖国に義勇軍として帰ることは出来ない。せめて
出来ることは開拓者としての経験を生かして日本軍が占領した南洋の島々へ移住し、植民化を
推進させることだった。

計画が進むうちにどうやら戦争が終結に向かっているとの情報が入る。そこで、天皇の玉音放
送が流されると言うことで、事実を確かめるためにラジオをつけてみたそうだ。最初は誰も音な
ど聞けないと思いこんでいたのだが、地球の裏側にも関わらず、かすかに天皇の肉声が聞こえ
てきたのである。しかし、肝心の勝ったのか負けたのか、という部分が聞き取れなかったそうだ。

サンパウロにいた日系ブラジル人の大半は、その後もまだ日本が勝ち続けていると信じてい
た。日系のコミュニティーに出回っていた新聞には「日本軍がサンフランシスコに上陸した」と言
う記事すらあったという。だが、ブラジル国内では、すでに日本が敗戦したという情報が広まっ
ており、一体どちらの情報が正しいのかわからなかったそうだ。

そこで日系コミュニティーは、まだ日本軍が勝っていると信じる「勝ち組」と、敗戦を受け入れた
「負け組」の2つに分断された。この両者は対立することになる。そして対立が激しくなるにつれ
て、勝ち組が負け組のメンバーを暗殺したり、爆弾テロを起こしたりという次元にまでなった。最
終的にブラジル政府が対立に介入することになり、両者は和解したのだが、それは終戦から四
年も経った後のことだった。

地球の裏側で、そんな終戦の歴史があったとは。
こういう話を歴史教科書に載せるべきだと思うのだが。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:25 | 文化人類学

KOKOYAKYU

人類学を勉強している者なら誰でも見たことのある「トロブリアン・クリケット」というドキュメンタリ
ー映画がある。イギリスで始まったクリケットが、パプアニューギニアのトロブリアン島に伝わっ
た後、どのように変容して行ったかを追ったものだ。これが、本場のクリケットとは全く違ってい
てかなり笑える。

タロイモの収穫時期に合わせて、祭のような感じでトーナメント戦が開かれる。各氏族が一つの
村に集まり、戦闘用の羽飾りを纏って対戦していくんだが、これがなかなか進まない。まず試合
前に相手チームを威嚇する踊りが披露される。その中には、世界大戦中に駐留していたアメリ
カ軍の飛行機を真似て、手を水平に広げながら行進するようなものもあれば(おそらく彼らが見
たものの中で最も巨大で恐ろしいものだったのだろう)、いかに相手チームの男達がヤリチンか
罵るようなものもある。そして、試合が始まっても一球投げるごとに、守備チーム全員でボール
に魔術をかけたりする。審判がいないので乱闘はしょっちゅうだし、一試合終わるのに3日かか
ったりしてしまう。

たしかに、ここまでクリケットが変わってしまうのは、「原始人だから仕方ないよな」と思ってしま
うかもしれない。しかし、これと同じくらい笑いを誘ったドキュメンタリー映画をアメリカで見たこと
がある。それは、日本の甲子園を追ったもので、その名もズバリ、KOKOYAKYU。

機械のように足並みを揃える入場行進。チアリーダーが、何故か女の子ではなくて、鉢巻を締
めたいかつい男。皆揃って丸めた五分刈りの坊主頭。そしてあたかも人生が終わってしまった
ように泣き崩れる敗北者達。

これら一つ一つのシーンが、アメリカ人からすると奇妙かつ滑稽で爆笑を誘っていた。個人的に
は感動して涙を誘ってしまうようなものでも、たしかに、アメリカ人からすれば自分たちの知って
いる野球とはかけ離れているのだから、仕方がない。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:17 | 文化人類学

なぜ?という質問は答えられない

様々な方にインタビューをしてようやく気付いたのだが、何かを強く信じて生きている人に対して
「なぜ~するのですか?」という質問をしてもろくな答えは返ってこない。それは本人も答えを知
らないか、あるいは、誰かが勝手に作った答えを借りて「正しい」答えを用意するしかないからだ
と思う。

例えば、キリスト教徒に向かって「なぜ宣教するのですか?」と聞いたら、おそらく「聖書にキリ
スト教を広めるよう書いてあるから」と答えるはずである。しかし、それはキリスト教徒がすべき
ことと信じている規範を説明しているのであって、なぜ宣教という行動を正しいと思って遂行して
いるのかを答えているわけではない。つまり、ある行動を正当化する規範は説明できても、なぜ
その規範を正しいと思い行動に移しているのか、規範と行動の間にある合理性を当の本人はた
いてい説明出来ないもんである。

自分だって同じである。「なぜ金にもならないのに文化人類学なんて勉強してるんですか?」と
聞かれると、全く答えれない。「人類の間で普遍的に共通していることは何か、または異なって
いることとは何か、追求したいからだ」と答えたとしても、格好良くは聞こえるが、それは文化人
類学の教科書に載っている正しい答えを言っているだけで、なぜ自分がそのような問いを考え
たいのかは説明出来ない。「じつは、高校でニュージーランドに留学したときに現地校でマオリ
語の授業をとり、異文化について考えさせられたからだ」と答えたとしても、例えそれが事実で
あれ、当時は文化人類学のぶの字も知らなかったわけで、現在の自分を正当化するために過
去の出来事を恣意的に選んでロマンチックな語りを作り上げているだけに過ぎない。なんとなく
勉強しているうちに、なんとなく好きになってきて、これで飯でも食えりゃあいいな、というのが本
音だ。高尚なことは言えても、別に高尚な人間ではない。だから高尚で理念的なことを言う人
は、胡散臭いと疑ってしまうのだが、本人も説明出来ないのだから仕方ないな、と開き直る。

なんか話が横道に逸れたけど、ある人の行動の理由を聞いても、その行動の規範の説明しか
出来ないのが当たり前で、不毛な問いをしているわけである。当人でない人がその理由を追求
するには、「なぜ」の代わりに「どうやって」と問いを変えるしかない。「なぜそこまでして~をする
のですか?」という問いを何人かにしてきたけれど、フィールドワーク開始から1年も経ってその
愚かさに最近気付いた、というのがオチです。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:11 | 文化人類学

地球温暖化の政治経済

地球は本当に温暖化しているのか?もし温暖化しているとしても温室効果ガスと言われる二酸
化炭素の過剰排出が原因なのか?よく古館さんが悲壮な顔して、どこそこの氷河が溶けてい
ます、どこそこの湖が干上がりました、と語っているが、メディアによって選ばれた局所的状況
が本当に「地球規模」という大きなスケールに結び付けられるのかは疑問である。

まず第一に、現在の気温の上昇が、工業化に伴う二酸化炭素の排出という人工的な原因によ
るのか、それとも地球が数十年、もしくは数千年という周期で繰り返される寒期と暖期の上昇期
にあるからなのか、科学者の間では結論が出来ていない。第二に、そもそも地球規模というス
ケールで均質に気温を測定できる科学的制度なぞあるのか、という問題に立ち返る必要があ
る。おそらくそのような制度もなくメディアが先に問題を誇大化しているのだろう。上に述べたよう
に局所的な気温の上昇を映像を使って恣意的に伝えることは出来てもそれが一体どれだけの
空間的範囲を超えて一般化出来るのかは科学的に証明出来ないのではないだろうか。

最後に一番地球温暖化説に疑問を覚えるのが、二酸化炭素排出権が国家間の売買取引とし
て成立している点だ。二酸化炭素の削減が国際条約として規範とされた後、規定された目標に
到達出来ない国は他国に金を払って超過量を負担してもらうという制度が出来ている。これは
裏返せば二酸化炭素を減らすことのできる技術を持つ国が、そう出来ない国から半永久的に金
を巻き上げることが出来る制度とも見れる。またそれは工業化によって経済発展を目指す新興
国に対して足かせをはめる戦略ともなりうる。こう考えると地球温暖化説とは先進国が儲かる為
のゲームに他の国を取り込むルールとして規範化させているとも思える。

自分は陰謀説は嫌いだが、何故アメリカが急にバイオエタノールを主要なエネルギー燃料に変
えようとしているのか、何故アル・ゴアがノーベル平和賞を取ることが出来たのか、その政治的
背景が気になるところである。もし地球温暖化説が国家戦略として意図的に作られたものであ
るならば、素晴らしいブレーンがいるのだなと逆に尊敬すらしてしまう。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:06 | 文化人類学

モノガミーにモノ申す

異性の相手を1人だけ選んで生涯ずっと一緒にいるのが結婚なのか?人類学を学ぶ者ならお
そらく否定する。イスラム圏では一夫多妻が認められているし、チベットには一妻多夫(ただし男
は兄弟に限定)という形もある。インドネシアのある部族では異性間で結婚するものの、夫婦と
もに同性のパートナーなら婚外の性的関係が許されているところもある。日本も昔の武将など
は妻と男の妾を持っていたのだから、異性間の一夫一妻制というのはある社会のある特定の歴
史的文脈で定着しただけで普遍的な制度ではない。

では、もし自分がある女性に対して一生を捧げたいという感情が起こったとすると、果たしてそ
れは自分の本心から起こっているのか、それとも一夫一妻制を義務化する社会のイデオロギ
ーによって作られた感情なのか、と考えてしまう。頭では後者の理由を肯定しながらも、いざそ
れに対抗して何かしらの実践に移すのは難しい。しかし、中には実践出来ている人もいる。

うちの学部にすこぶる秀才の先輩がいるのだが、彼は同じく人類学を学ぶ女性と結婚した。しか
し、奥さんは婚後に自分がレズであることに気付き、別の女性と関係を持っていることを彼に打
ち明けた。2人とも夫婦関係を解消する気はさらさらなく、結論は、「一夫一妻制があるから初め
て浮気が悪となるのであって、浮気そのものが悪いわけではない」ということで、お互い婚外交
渉も自由な夫婦関係を続けている。浮気に伴う嫉妬という感情すらも乗り越えているのだから、感心してしまう。

こう書くと勉強し過ぎて頭がおかしくなったんじゃないか?と、思われるかもしれないが、真剣に
人類学を勉強するとこうなるのも仕方ない。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:02 | 文化人類学

加齢臭は嗅げるのか?

先日、ある女友達と飲んでいたとき「電車の中の加齢臭って嫌だよね」という話になった。最初
は加齢臭のことを「カレー臭」だと勘違いしていて、週三回カレーを食べている身としては「ひょ
っとするとカレー食い過ぎたら出て来る体臭なのか?」と焦ってしまった。後に誤解に気付きホ
ッとしたのだが、そんな言葉、自分が渡米する前には聞いたこと無かったので驚いた。でもこれ
は面白い文化的現象だと思う。

おそらく加齢臭という臭いは日本にしか存在しない。以前にも書いたと思うけど、味覚や嗅覚と
いう曖昧にしか認識出来ない感覚は、対象となる味や臭いを表す言葉があって初めて認識出
来るものである。例えば、日本語では「旨味」という言葉を使って海産物などから取れたダシの
味を表現するけれど、そんな言葉のないアメリカ人は、同じものを食べたとしても「旨味」を識別
することはおそらく無理だろう。同じように、「加齢臭」という言葉のない社会では、中高年の醸し
出す不快な体臭を嗅ぎ分けることは出来ないだろうし、そんな臭いが存在するなぞ思いもしな
いだろう。日本国内ですら、若い女性は敏感に加齢臭を嗅ぎ取れるかもしれないが、男性は鈍
感かもしれない。こう考えると、加齢臭を嗅ぐことの出来る人間は地球上でも限られた極少数の
先鋭集団だけなのかも。その名誉が嬉しいか悲しいかは別として。

しかし、何故「加齢臭」いう言葉がごく近年の日本で生まれたのだろうか?自分が思うには、1)
電車通勤という男女の身体が密接に接する公共空間が日常にある、2)「サラリーマン」というカ
テゴリーに区別される中高年男性は否定的なイメージで表象されやすい、3)消臭効果のある
商品が差別化を図るために、ある特定の臭いを「敵」として宣伝した、などの原因が挙げられ
る。たしかに加齢に伴い新陳代謝の速度が遅くなることで、細胞の腐敗臭がきつくなる、という
生物・物理的な側面があるのかもしれず、全ての人類がそのような体臭を醸し出すのかもしれ
ないが、日本で「加齢臭」という言葉が定着したのは上の理由に依るのではないだろうか。バラ
の香りになれるガムや飲み物が販売され出したのと、加齢臭という言葉が出てきたのが同時期
なのも考えてみて貰いたい。

こう考えると、我々が普段何気なく認識している臭いというのは、ある社会のある時期に偶然作
り出された結果なのかもしれない。ただ個人的には、将来娘にファブリーズをぶっかけられる日
が来ると思うと、憂いてしまう。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 15:54 | 文化人類学

もはや笑えない

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自分のフィールドワークは毎日こんなもんです。
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by fumiwakamatsu | 2007-08-28 21:45 | 文化人類学

目的論の問題

分析概念に目的論が含まれるのはいいことなのだろうか、という疑問をある方の
民族誌を読みながら考えさせられてしまった。まず問題なのは、人類学は
輸入学問になる傾向が強いことである。輸入学問とは、人類学内部の理論を
使うよりかも、他分野で構築された理論を用いてフィールドワークで集める知識を
学問的知識に翻訳することである。例えばなんだが、「生態系」という概念が
生物学から輸入され、自然と人間の関係を、あたかも他の動物と同じように、
閉じられた生業関係(生産、消費、エネルギーの循環など)に主眼を置いて考えていたのが、
60年代に流行った文化生態学である。ここでは「生態系」という概念で前提となっている
自然と人間との調和・循環的な関係を基にしてしか翻訳することができない。同じように、
政治に焦点を当てた人類学では、政治哲学で議論されている概念を用いてある地域の
制度や組織を検証している。しかし、政治哲学では「あるべき民主主義」や「あるべき
市民社会」という、倫理的に正しいとされる、もしくは、一種の理想型のような形で議論が
進まれていることが多分にあると思う。そこで、政治哲学の中で今最も正しいとされる
概念を用いて現地での知識を翻訳すると、たしかに、議論的には新しい主張を言えるとは
思うのだけれども、本当に現地の社会がその「あるべき」形に沿っているのか、と言うと
疑問に思ってしまう。その概念に含まれている目的論をわざと被せてしまっているのでは、
と思ってしまう。

しかし、だからと言って、「古い」とされている概念や理論を使ってしまうと、それは逆に
「倫理上正しくない」と批判される可能性もある。例えばなんだが、構築主義に基づいて
あるグループのアイデンティティーの歴史的成立を述べたとしても、「構築主義だけに偏ると
戦略的本質主義に基づいて政治活動を行っているマイノリティーの立場を否定している」
というような批判を受けることがある。例え、現地で接した人々の間には「戦略的本質主義に
基づいた政治活動」など皆無であっても、構築主義的立場で物事を語る政治性を批判されて
しまう。こうなると、政治哲学で最も新しく正しいとされる概念や理論を使ったほうが無難、
ということになる。

もちろん、透明で中立的な分析概念など虚構に過ぎないのだけれども、かと言って、
政治哲学の中で最も正しいとされる概念を用いると目的論に終止してしまう。綿密な翻訳と
政治的に正しい翻訳とのギャップをどう埋めていけばいいのだろう、と考えさせられる。
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by fumiwakamatsu | 2007-05-17 01:55 | 文化人類学

便所の落書きについて

先日、バークリーの院生と話をしていた。彼の友人で同校キャンパス内にある
公衆便所をくまなく回り、ドアに書かれている落書きについて解釈学的研究を
した院生がいるという。面白いのは、ただ性的で卑猥な落書きだけでなく、
マイノリティーを擁護するリベラルな学風としられている同校なのに、マイノリティ―に
対する誹謗中傷、そして、マイノリティー側の生徒からの同じように過激な反論でドアが
びっしり埋まった落書きが多かったと言う。その研究者の結論は、「政治的正しさ」が
規範となり、「政治的に正しくない」とされる言明が公に出来る場が少なくなったので、
そのはけ口として、匿名性が守られる便所という半公半私な場で「政治的に正しくない」
言明が突出して現れるようになった、だそうだ。

結論の良し悪しはさておき、母校の学部でも同じように便所の落書きが問題化
されたことがある。うちの学部は海外からの留学生と日本人の学生が同様に英語で
授業を受け、文部省から「国際的特色のある学部」として表彰されたこともある。しかし、
大便をしに便所の中に入ると、いかにその「国際性」というのが見せかけかが
わかるえげつない落書きでドアが埋められていた。日本人対外国人という図式だけ
でなく、留学生内での人種差別を露骨に表した落書きもあった。書かれた筆跡から
見る限り、誹謗の応酬はおそらく特定の人物だけが参加しているのでなく、普通に
大便をしに来た生徒が読んでいるうちに怒りがこみ上げ、連鎖的に書き込みを加えて
いったのだろう。学校側が何度もペンキで上塗りしてもいたちごっこで終わらなかった。

ネット上の掲示板にせよ、便所の落書きにせよ、匿名性を保つことのできる公の場という
のは面白い。どれだけ平等・公平を普遍的な価値として教育現場で植え付けようとしても、
匿名性だけ守られれば根っこにある差別的な見方などいくらでも露出してくるものなの
だろう。このような嫌らしい露出が「公の場での政治的に正しい発言をしなければならない」
という基準化が進み、その反発として出て来ているのかどうかは抜きにして、教育や
社会運動によって推進された平等観などは表層的な部分にしか浸透できない、という事実を
素直に認めさせてくれるのがこれらの場所だと思う。願わくば、ただ書き込まれた言説だけを
分析するのではなく、落書きをする人々を実際にインタビューするような研究が出て来て欲しい。
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by fumiwakamatsu | 2007-05-13 23:57 | 文化人類学