カテゴリ:文化人類学( 155 )

寿司食いねぇ!

担当教官が「東京」というタイトルの授業を教えている。
寿司のグローバル化を研究している担当教官は、アメリカでいかに寿司が浸透してきたかを示すためにE-Bayで買い漁った寿司グッズを授業に持ってきた。

「アメリカ流寿司の巻き方ベスト20」という本の中にはピーナッツバターといくらを使った手巻きが紹介されていたり、

「寿司ソング」というわけのわからんカントリー風のCDや、

子供が寿司に馴染めることができるように「寿司のABC]という絵本があったり、盛りだくさんだった。

うけたのが「バービーちゃん板前セット」。

はっぴを着たバービーちゃんが寿司屋のカウンターと寿司の模型と一緒に入っていた。そしてカウンターに書いてある日本語のメニューを読んで見ると誤記だらけで、授業中にもかかわらず声を上げて笑ってしまった。

「黄ビール」、、しょっぱそう!
「生バール」、、、硬そう!
「にぎろ」、、、生々しい!

バービーちゃんが「にぎろは何にいたします?」とか「黄ビール一丁!」とか言ったら変なこと連想しません?
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:15 | 文化人類学

文化は進歩し続ける

全く内容の異なる2つの講演でこの言葉を2回聞いた。そしてそのどちらとも文化人類学が歩むべき方向性について考えさせられるものだった。

まず修正進化論を唱えるNY州立大学の生物学者の講演。

これまでの進化論は「最も適合した者が生き残る」というダーウィンが唱えた個人レベルでの進化論と「最も適合した集団が生き残る」という社会進化論に二分されてきた。では、その2つを繋げる中間点を探ろうというもの。

簡潔に論調を述べると

(1)個人が自己の利益を最大限化させると集団全体の再生産能力が低下する
(2)従って無意味な競争を避けるために共存を図る道徳観(これを文化と講演者は呼んでいた)が集合体の中で進化していく。
(3)最終的に、バランスの取れた文化を持ち合わせる集合体は生存率が高まり個人レベルで遺伝子も同様に最適化する

という内容。

20世紀に植民地主義を煽った社会ダーウィニズムの再来である。

腹立たしかったのは、バクテリアや蜂の集合的働きの例を用いて、それが人間社会にも当てはまるという、単純な飛躍だった。こんな理論は簡単に批判できる。

人間社会において一体どこの集合体が他の集合体とミックスせずに遺伝子を再生産し続けると言うのか?そして文化レベルでの融合性をどう説明するのか?

最後に講演者が自著の「ダーウィンの教会」という本を説明し、「一見なんの実用性もない宗教的儀式も集合体の生存のために機能している」という主張をした。時代錯誤も甚だしい。そんなことは人類学者のマリノウスキーが100年前に言ってるのに。

心の中で何度も「ふざけるな!」と叫んでいたが、嬉しいことに質問の際、他の生徒が批判をしまくり場内が騒然となった。この大学の生徒はまだ健全なことを知ってホッとした。

新たに修正社会ダーウィニズムを唱える学者が出てきていることを知っただけでも大きな収穫だった。このような論調は容易に人種差別に変わっていく。アメリカ人類学の創始者であるフランツ・ボアズが半世紀前に公然と社会ダーウィニズムを批判したように、文化人類学者として真っ先にこのような理論を批判せねばならない。

2つめの講演は「Black Bitches Talking」というオーストラリア原住民の女性5人をインタビューしたドキュメンタリーフィルムを見たとき。出身地、職業、階層の全く異なる5人が、日常の人種差別、アボリジニーとしてのアイデンティティーの回復を語る。最終的に5人が同じテーブルで夕食を食べ、団結を誓い未来に進む、という内容。

上映が終わったあと、同じく原住民である監督が質問に応じ、「私達の肌の黒さは変わりません。しかしアボリジーとしての文化は進化し続けます」と話した。

皮肉に聞こえるかもしれないが、彼女の言う文化とは「創られた文化」に過ぎない。

だって彼女達の2世代前までは、各部族間に何の交流も無く、近年になって社会的に差別されてきた仲間という意識が広がったために「同じ文化を共有する」と唱えているのだ。それに同胞というよりは、弁護士のお姉さんもいればアル中のおばさんもいて、むしろ差異の方が目立った。

もっと皮肉になろう。

この監督が自製の映画を作ってアボリジニーの立場を発言できるのは、白人という覇権者が立場を与えて初めて発言できるようになったからだ。「発言できない者」から「発言出来る者」への移行が、権力関係を全く変えていない点を彼女は認識していない。そして、自ら同胞意識を煽ることで、差別されていた原住民の中に新たに差別が生まれている点(例えばアル中のおばさんの貧困は軽視されている)も意識していない。

イタリアの思想家グラムシーが「ヘゲモニー(覇権)は目に見えない。被抑圧的立場から脱出するためには抑圧者へと移行するしか手段はない。」と唱えたのが、見事に当てはまっている。

では、「アボリジニーの文化は近年になって創られた偽の文化である」、と構築主義立場に基づいて文化人類学者が結論すべきか?

答えは否だ。

人種、階層、年齢、ジェンダーなどのアイデンティティーに従って、社会的に抑圧されてきた者(インドの被抑圧的カースト集団の名前に従ってサバルタンと呼ばれている)が、発言する場を作り出すために自らの文化を戦略的に本質化させているのであって、学者が権威を盾にそのような運動をつぶしてよいのか?

文学者スピバックは、文化人類学が構築主義に偏り始めたとき、真っ先にそう批判した。

従って、被抑圧者が戦略的本質主義に拠らなければならない社会の文脈を明確化し、彼/彼女達の達の向上を助成しながらヘゲモニーの構造を批判すべき、というのが現在の妥協点である。

しかし、これもまだ解決策ではない。結局サバルタンに発言の機会を与える最終権力は我々が把握しているからだ。ヘゲモニーに変わらない。

これが以前の日記で書いた文化人類学の孕む他者表出の問題である。完全に口を閉ざして民族誌など書かない方が権力の不均等を生まないのだろうか?

ここで反論したい。

スピバックの批判も、サバルタンという他者を道具に使って初めて成り立っているのである。他者表出の暴力性はどちらも同レベルではないだろうか?
そして、沈黙することも1つの演出に過ぎない。それは他の権力者に最終判断を委ね、批判する機会すらも消してしまうことになる。先述の生物学者をのさばらせる危険を生んでしまう。

ここまで来ると完全に袋小路だ。

しかし文化人類学はまだサバルタンと直接接触を図る柔軟性を持っている。
この柔軟性に僅かながらも新たな可能性が含まれていないだろうか?

今日聞いた2つの「文化は進化する」という発言は、いい意味で文化人類学への挑戦だった。変化こそが永続なり。

追伸:今日の日記を読んで面白いと思われた方はリンクにも貼ってある太田好信氏の「民族誌的近代への介入」という本を読んでみて下さい。正直言って彼の主張をパクッてます。えへへ。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:13 | 文化人類学

Railway Urbanism

田園都市線沿いに住むある女の子が将来も田園都市線沿いに一軒家を構えてくれるほど収入のある人と結婚したい、と言っていた。

この子は一生東急の奴隷として生きていく。
東京私鉄沿線に住むというのは、最寄の私鉄会社に一生金を払い続ける、という循環から逃れられない。

小田急を例にとろう。

まず小田急沿線には小田急不動産会社が建てた郊外の一軒家が立ち並び、駅から最寄のバス亭に行くには小田急バスに乗らなければならない。

そして週末は新宿の小田急デパートのバーゲンに翻弄されるか、小田急の最終駅近くにある娯楽施設に遊びに行くために小田急に乗るか、という消費パターンにはまる。

これが東急ならもっとひどい。だって広告会社まで経営してるいるから。
「田園都市線に住むのはハイソな生活の象徴です」という言説すら自ら創り
出すことができるのだ。

日本の私鉄会社は郊外の商業化と同時進行していった。
そして目に見えない消費の循環を生み出してる。
先述の女の子のように「田園都市線に住む=ハイソな生活」と思い込んだら、「ふふふ、奴隷がもう1人できあがり」とほくそ笑んでる奴が影にいるのだ。後はハツカネズミが車輪を永遠にまわし続けるように、死ぬまで生産と消費を繰り返すだけだ。

Railway Urbanismって怖いでしょう?

追伸:
フランクフルト学派ベンジャミンは「音楽やネオンが視覚・聴覚を混乱させ、思考を麻痺させる。この効果こそ文化産業が消費を促進するための切り札なのだ」と言った。この理論に基づき歴史学科にいる日本人の友達が、明治初期の私鉄デパートと音楽産業の発展というテーマで研究をしている。それを聞いたとき「やられたー!」と思った
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:11 | 文化人類学

ハドラミスと隠れた歴史

以前に取っていたMobilityというクラスを教えていた教授がこの部族のディアスポラ(移民)について研究している。ディアスポラという現象はアメリカ、アフリカ、ヨーロッパをまたぐ民族を中心によく研究されているが、彼はインド洋に目を向けアラビア半島と東南アジアを往来したこの民族に焦点を当てた。

このハドラミスという部族は現在イェメンにあたるアラビア半島先端地域で遊牧や農耕を営んでいた。13世紀以降イスラム改宗運動が高まるとイマム(イスラム教の指導者)達は当事盛んだった中東-東南アジア間の貿易船に乗りマラッカ半島やインドネシアへと改宗の旅へ出かけた。

彼らは行く先々で聖職者として迎えられ各地の権力者の娘達と結婚していった。国民国家(Nation-State)という枠組みが普遍化した今ではなかなか想像できないが、国境という概念が無かった当時は部外者でも簡単に受け入れらたのだった。そして混血の子孫達はアラビア人としての意識と言語を保ちながらも、聖職者、外交官、軍隊の指揮官として各地地域の王朝中枢部に食い込んでいきアラビア半島との交易を活発にさせる。現在のマレーシアの外務大臣もじつはこの子孫であり、誰かは忘れたがインドネシアのある大臣もこの部族出身である。

16世紀以降、ポルトガルがインド洋貿易に介入するようになり、その後オランダとイギリスが武力で各交易地を植民地化していった。19世紀アチェ王朝(現在のインドネシア・アチェ州にあった王朝)とオランダ海軍が30年に渡り戦争を繰り広げた。そこで、中東から東南アジアにまたがる複数の王朝に結束を促すために外交役を買ってでたのがこのハドラミスの子孫である。彼らにはすでに貿易、親族、宗教で繋がれた巨大なネットワークが出来上がってた。

その中で一番有名なのがムハンマド・アルラヒルという人物。インドで生まれてエジプトでイスラム教育を受け、またインドに戻り貿易業を営んでいたのだが、ヨーロッパ各地に旅へ出かけ様々な学問を吸収し、最終的にはマレー王朝に遣えることになった。アチェ戦争が始まったとき、彼はトルコオットーマン朝や他のイスラム王朝に出向いて派兵を要請し、また当事進出してきたイギリス軍にも応援を頼んで、結局オランダ軍を退けることになった。オランダ軍はインド洋を駆け巡る彼を捕まえようと必死になったものの、ネットワークの広さゆえに捕まえることができずじまいだったのだ。

さて、勘の鋭い人はじつは現代版のアルラヒルがいることに気付いたのではないだろうか?

そう、オサマ・ビンラディンである。
彼もじつはハドラミス部族なのだ。

彼の生地もイエメンで、父親がサウジアラビアで建設会社を興し臆万長者となった。オサマはオックスフォードで教育を受けた後、東アフリカからフィリピンに渡るハドラミスの子孫のネットワークを転々と辿って行った。そして各地でイスラム原理主義を説いてアルカイダのメンバーを増やしていき最終的にアフガンに落ち着いたのだ。

では何故彼は9・11を起こしたのか?
答えは簡単。ハドラミスの過去には同じような聖戦がいくらでもあったからだ。オサマは帝国主義を崩すためのテロリストとして見られがちだが、そうではない。彼が9・11直後に出した犯行声明で真っ先に要求したのがアメリカ軍のサウジアラビア撤退である。つまり聖地を汚すものへの反抗にすぎない。世界秩序の編成なんて2の次の話だったのだ。

そして何故彼が捕まらないのか?
これも答えは簡単。アルラヒルと同じく彼には世界をまたぐ広大なネットワークがある。現在もパキスタンにいるかどうかはわからないが、アメリカのCIAにも追いつけない逃げ道がいくらでもあるのだ。

さて、こうして見ると西洋の帝国へのテロリズム(ハドラミスの子孫にとっては聖戦)は一定のリズムで起こっていたのであって、決して新しい話ではない。これはハドラミスのディアスポラに目を向けて初めて理解できる隠された歴史なのだ。

この話は「Empire from Diasporatic Eyes」という教授の論文に書かれているので興味が沸いた人は是非読んで欲しい。イスラム教徒のルームメイトも同じ論文を読んだのだが、2人とも興奮して2時間ほど議論してしまった。
授業の中で教授は「たしかに過去に起こった歴史的事実は変わらない。しかし、視点を変えることによっていくらでも新しい事実なんて見えてくるんだよ」とおっしゃり、それを堂々と成し遂げたこの人にはまるで後光が差してるように見えた。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:09 | 文化人類学

ブランド嗜好な学者たち

一般人がフランス物のブランドが好きなように凡才な学者もブランド嗜好が強い。”フーコー,””ブルデュー,””デリダ,”というフランスの理論家の名前は”シャネル”や”ルイ・ヴィトン”という言葉が一般人に与える響きと同じくらい、もしくはそれ以上に凡才な学者をくすぶってしまう。そして、それらの名前を所有し、顕示しようとする欲求にかられてしまう。

 ここで、ある例え話をしてみたい。
目の前にルイ・ヴィトンの茶色の手提げカバンが置かれているとしよう。
しかし、ルイ・ヴィトンという会社名は存在せず、そのカバンにブランド的価値は一切ない。なのに、そのカバンには12万円という値札がついている。

 果たして12万払ってそのカバンを使用する価値があることをあなたは説明できるだろうか?茶色のカバン特有の機能性、材質、デザインがそれほど他の会社のカバンよりも優れているのだろうか(個人的にはLとVが重なっているロゴが敷き詰められているのをとても醜く思う)?何ヶ月分もの給料を苦労して貯めて、そのカバンを買おうとするだろうか?

 ルイ・ヴィトンのカバンに大金を支払おうとするのは、ブランド名がすでに”一流”なものと確立されているからであり、そのカバンを持ち歩いて他人に見せることで自分と他人との差異を際立たせたいからじゃないだろうか?たとえ、それが意識的にせよ無意識的にせよだ。カバンそのものの純粋な使用価値に12万円が値するのではないはずだ。

悲しいことにこれと同じことが凡才な学者のブランド嗜好にも当てはまる。

「マルクスの理論なんてボードリアールの理論で完全に崩されてるじゃないか」「グラムシの言っている権力論はフーコーの権力論に比べればたいしたことはない」「レビーストロースの構造主義は終わった。今はデリダのポスト構造主義だ」

 と、いう具合にだ。とにかくヨーロッパのトレンディーな理論家の名前さえ出せば事が済むと思っている人がアメリカにも日本にも多い。まるで水戸黄門が印籠を出すようにだ。しかし、その反面、理論家の名前ではなくその理論の使用価値について聞くと黙ってしまう。今自分がやろうとしている研究に特定の理論がどうあてはまり、その理論を使うことによって今まで見えてこなかったどのような側面が見えるようになるのか、そして、その理論は他の理論に比べて使うのが本当に適切であるのか、説明できないのだ。

 なぜこんなブランド嗜好がまかり通るかと言うと答えは簡単。上に名前を挙げたヨーロッパ人の理論は,その内容は知らずとも一流かつ超難解だとは誰もが知っているから、その名前を出して知的ぶりたいという顕示欲に駆られているだけだ。シャネルやヴィトンとなんらかわらない。

 これは私見なのだが、おそらく上に述べた理論家達の言っていることは道標に過ぎず、具体的な事象を分析・解釈するさいにそれほど有効だとは思わない。彼らは一種のパラダイムを作った人達で、ようは、白紙の状態から何を書いたらいいのか、その方向性を示してくれているだけだ。

 社会科学では、各分野(社会学、文化人類学など)の中でサブジャンル(階層化、社会運動、ナショナリズム、ジェンダーなどの主題)が多岐に渡っているので、そのジャンルにに沿った中レベルの理論を唱える名の知れていない人物が多い。もし具体的にものごとを研究するなら、それら中レベルの理論のほうがはるかに役立ち、緻密な分析(解釈)を可能にさせてくれる。

 こう言う自分もファッションに関しては全くお洒落ではないが、学問に関してはかなりブランド嗜好になる傾向がある。最近はなんとかそれを直すために、理論家の名前を出さないようできるだけ努力をしている。

 例えばなんだが、「誰々は、~についてこう主張しているが、別の誰々によると、こういう見方もある」という書き方をできるだけしないようにしている。それよりも、「~という事象については2つの異なるアプローチの仕方がある。一つ目は何々これこれというアプローチで、もう一つは、対照的に何々これこれというアプローチである」という具合にして、理論家の名前をできるだけ表に出さないようにしている。名前なぞは、そういやこのアプローチについてはあいつが言ってたな、と思い出す程度に文末の括弧の中に付記するだけで十分なのだ。

 学部時代に履修していた文化人類学の理論のクラスで先生が言っていた言葉を今でも大切にしている。

「いいですか、私が教えている理論は色眼鏡に過ぎないのです。将来、フィールドリサーチをするときはカバンの中にできるだけ多くの色眼鏡を詰め込んで行きなさい。全ての色眼鏡をつけてみて、一つの現実が全く異なるように見えればよいのです。そして、持ってきた色眼鏡で物足りなかったらあなた自身で一つ作ってみなさい。決して、持って行くカバンや色眼鏡のブランドが”グッチ”や”アルマーニ”のものだからっていい物とは限らないんですからね」

ブランド名のフェティシズムに負けないようにしたい。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 13:59 | 文化人類学