カテゴリ:文化人類学( 155 )

エヴァンズ・プリチャードについて その2

David Graeber, in his brilliant essay " Beyond Power/Knowledge an exploration of the relation of power, ignorance and stupidity," talks about absurdity of using Foucault's idea of panopticonic gaze, citing the famous episode of Evans-Pritchard observing a Nuer camp from his tent:

Renato Rosaldo (1986) made a famous argument that when Evans-Pritchard, annoyed that no one would speak to him, ended up gazing at a Nuer camp of Muot Dit “from the door of his tent”, he rendered it equivalent to a Foucauldian panopticon. The logic seems to be that any knowledge gathered under unequal conditions serves a disciplinary function. To me, this is absurd. The panopticon was a prison. Prisoners endured the gaze, and internalized its dictates, because if they tried to escape, or resist, they could be killed. Absent the apparatus of coercion, such an observer is reduced to the equivalent of a neighborhood gossip, deprived even of the sanction of public opinion.
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by fumiwakamatsu | 2011-01-25 07:27 | 文化人類学

名付けについて

1990年代初頭、ニュースステーションに中国の国家主席であった鄧小平の娘さんがゲストとして出演していたことがあった。「我が父、鄧小平」という自伝を出版したので、その宣伝のために来日していたのだが、自分の記憶に残っていたのはその娘さんの名前が強烈だったせいだ。「毛毛(マオマオ)」。久米宏が、「そのような名前が付いたのは、お父さんが毛沢東を尊敬されていたからですか?」と質問したところ、そんなことはない、と娘さんは言う。「私が生まれたとき、異常に毛深かったから父がその名前を付けたのだ」だそうだ。一国の頭領が、娘の名前をそんな単純な理由で付けるのか、と驚いてしまった。

名付け、という行為は考えてみるとても面白い。というのも、名付けを通じ、生まれてくる子供という個人に対して特定の意味や価値を持たせて、その他一般の子供と区別化させていかなければならない。それと同時に、名前を選定するときに用いられる言葉がどのような範疇から選ばれ、どのような基準を用いて選定していくのか、というのは社会の規範に沿う必要が出てくる。このように名付けという行為は、一見すると矛盾しているように思える。それは、子供を他の子供とは明確に区別するという「個別化」を目指す一方、その名前の言葉を選ぶ範疇や選定の基準自体は社会的に決められた範囲から逸脱してはいけないという規則に従う必要があるからである(アクマちゃんという名前が受理されなくて裁判を起こした親の例を思い出して下さい)。そのどちら側にベクトルが向くか、というのは歴史的・文化的背景に大きく左右されるのだろう。

話をまた中国の例に戻そう。ある人類学者が、1970年代に中国の農村で実地調査をしていたときに、男女によって名付けのされ方が極端に違う点に気づいた。まず、名付けの回数が違う。女性は、一度決められた名前を一生用いていくのに対し、男性は、子供から大人へと変わる通過儀礼の際に一度名前が変更され、さらに、もし成人になってから偉業を成し遂げた場合には、さらに名前が変えられるそうである。また、名前を選ぶときの言葉も、男女によって違う基準が用いられる。女性の場合は、国花である「梅」が多用されたり、また面白い例として挙げていたのが、当時の中国は冷戦下にあったため「反米」という名前を付けられた女の子もいたそうだ。上の毛毛さんもそうであるが、女性の名前に対しては、それほど個人としての区別を意識しているというよりかは、社会の通例に沿い、あまり名前に対する意味を込めずに名付けをする場合が多い。反対に、男性はというと、生まれた当初に親が付ける名前は女性と同じようにいい加減なものの、第一、第二の名前変更時には、儒教の道徳観を反映した名前が姓名判断の専門家によって丁寧に選ばれるそうである。つまり、男性の場合は、名前を変更してく度に’「社会に対してこのような人間になって欲しい」という個別化が、名前に込められる道徳的な意味により鮮明になってくる。このように、名付けといういたって単純な行為からも、男女による格差が再生産される社会制度を、この人類学者はフェミニストの観点から指摘していたわけである。

同じように、個別化の度合いと社会の通例に沿う度合い、という物差しで日本の場合を振り返ってみると、階級や性別により名付けのされ方が極端に違ったのでじゃないだろうか。近代以前の例をとると、まず名字自体が、侍階級にしかなかった。つまり、氏族の永続が重要とされる階級に限り、名字が付けられていたわけであり、その他の商人や農民は、「反物屋の与平」、「~村の権兵衛」という名前しかなかったわけである(名字が普遍化されたのは、明治以降、近代国家が税金を徴しやすくするために、家族という単位で戸籍制度を作ったせいだろう)。また、名前を見ても、中国と同じく、「太郎→勝千代→晴信→信玄」とある戦国武将の名前が変更されていったように、特権階級における男性に限り、名前の変更による個別化とそこに込められる意味の重要性が増すよう制度化されていた。

明治以降の名付け方を見ても、性差による名付けの違いは大きかったのじゃないだろうか。おそらく昭和初期の世代まで、女性の名前には平仮名表記、男性には漢字表記という形が一般的だったと思う。我が家の父方の例を挙げると、祖母は「すゑ」であり、祖父は「松蔵」である(「若松松蔵」ってどうなのよ?と突っ込みたくなるが)。中国ほどではなくても、平仮名表記と漢字表記を区別することによって、名前に個別の意味を与えるかどうか、とういのは性差によって分断されていたように思う(男性名で漢字表記されても、「一郎」「次郎」「三郎」というように、ただ兄弟間の序列だけを示しているともいえるが)。

で、何が言いたいかと言うと、性別・階級に関係なく、一般的に名付けによって子供を個別化するようになりだしたのは、たかが自分達の親世代から始まっただけなのではないだろうか?もちろんその背景には、教育の普及や、家柄の価値の低下や、女性の社会進出、などの要因が挙げられるけど、どの家庭でも、独自かつ常識の範囲に沿う名前を付けるために、苦労と時間を割くようになったのは、たった60年程度の歴史しかないように思える。

昨日、嫁さんと将来生まれてくる子供の名前について2時間ほど延々と話していて、結局最終的には「いい名前を付ける基準ってなんなんだろうね」という結論で終わってしまった。よく考えると基準がないのは当たり前で、それは名付けで悩んできた歴史自体が非常に短いからなのだろう。だからこそ、名付けの基準の無さから起こる不安に付け込み、姓名判断のような商売が成り立つわけだ。

結局、開き直って、「語感がいい」「可愛い」「若松という名字は古臭いから、名前も古臭いほうがあう」という基準を用いて以下の候補があがりました。

女性名:リン、キヨ
男性名:カツキ、シンノスケ、コウスケ、ソウスケ

長々と書きました、結局皆さんにもご意見をお聞きしたかっただけです。
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by fumiwakamatsu | 2010-04-19 05:15 | 文化人類学

食の三角形と人種意識

アメリカに住む日本人が、アメリカにある寿司屋で他人種の板前が寿司を握っているのを見ると
人種差別するわけではないけど抵抗感がある、とよく不平を言う。自分も人種観に関しては脱構築
できている方だと思っていたが、やはり同じ感想を持ってしまう。もしカウンターで日本人の板前と
ラテン系の兄ちゃんの板前がいれば、つい日本人の方にオーダーしてしまう(日本語が通じるから
というのもあるが)。寿司という生ものを扱う人間が同じ人種に属していないと、「穢れ」として認識
してしまうのは何故だろうか、これは無意識に存在する人種差別なのだろうか、と反省してしまう。

ここでやはり考えるべきは食べものに対する「清潔さ」と「穢れ」の二項対立がどう人種観にも
刷り込まれているか、ということなのだろう。レヴィ・ストロースが食の三角形で言わんとしていたことが
まさに当てはまるのではないか、と、先日、寿司屋でラテン系兄ちゃんの握った寿司をほおぼりながら
考えていた。結局、味には何の違いも無いのだ、と再確認しながら。

ただの材料が食べものへと変化するには2つの変容過程を経る必要がある、と彼は食の三角形で
説明している。まず最初には、「生もの」がそのままの状態から別の状態へと変化する過程である。
それは「料理されたもの」か「腐ったもの」の2つに別れる。ここで、「生もの」「料理されたもの」
「腐ったもの」の三角形ができあがる。しかし、なぜ「腐ったもの」が食べものとして認識されずに、
「料理されたもの」だけが食べものとして認識されるのか、というと、それは人工的に「生もの」が
変化させられたのか、それとも自然に変化させられたのか、というもう1つの過程の分岐点を経ている
から、である。つまり、まず最初に「生もの」がそれではないものへと変容し、その後には自然では
なく人工的に変容する、という過程を経て、初めてただの材料が食べものだと認識される、というわけ
である。

さて、レヴィ・ストロースが最も強調しているのが、自然から文化(つまり自然が人工的に変化させれた
もの)への概念的な変化を生み出す二項対立が他の分野の行動様式や価値観にも再生産されて行くと
いう点である。食の三角形の中で彼が述べているのは、「料理されたもの」の中でもさらに「焼いたもの」
と「煮たもの」という自然と文化の二項対立が成り立っていると話を進める。つまり、焼いたものというのは
料理の素材に直接火を通すという野生的な行為であり、逆に煮たものというのは鍋や水という他の物を加え
た上で料理する文化的(人工的な手が加わったという意味で)な行為として位置づけられる。さらには、
焼くという行為はどちらかというと男性が家の外で特別な行事のときに行い(例えばバーベキューとか)、
逆に、煮るという行為は女性が普段から家の中でも行うことが多い、という具合に、性による役割分担、
空間の内と外、特別と普通、という具合に他の行動分野でも最初に出来てしまった二項対立が再生産
されていく、わけである。

話を寿司に戻そう。

たとえただの材料が食べものへと変化する過程で「生もの」が「料理されたもの」という自然から文化
への概念化が必要と言っても、寿司は「生もの」じゃあねえの?という批判が出てくるかもしれない。
この点を日本人の文化人類学者である大貫恵美子が逆手を取って説明しているのだが、日本人にとって
自然から文化への概念化の過程は、むしろ「生もの」を「生もの」、つまり自然を自然なものとして作り
上げることこそが文化への変容だと言うのである。例えば竜安寺の石庭しかり、寿司しかり、それは決して
生の素材がそのまま出されているわけではなく、石の配列の計算や、鮮魚を限りなく新鮮な形で保存する
など、自然と見せるためにものすごい人工的な労力と時間が割かれているわけである。つまり、食で言えば
寿司や刺身などの生ものこそ、最も自然が文化へと「料理された」形の食べものだ、ということになる。

こういうふうに自然と文化の逆転された二項対立が日本人の認識構造にある、という仮定のもとで考える
と、最初に述べた人種意識も説明がつく。レヴィ・ストロースが言うように他の分野でも二項対立が再生産
されるのであれば、集団意識の内と外、清潔と穢れ、特別と普通という分野にも二項対立が投影されてし
まっている、わけである。つまり、寿司という生ものは、特別な機会に食べることが多く、内側の集団
(つまり日本人)が作った上で初めて清潔に食べられる食べものだと認識しているのであり、その一つでも
条件が狂うと(つまり外の集団である他人種が作っていると)その二項対立が崩れ、「穢れている」、と
認識して過剰反応してしまうのだろう。

なるほど、こう考えると、人種差別というよりかは二項対立の認識構造の根深さのせいなのだな、と
改めて寿司屋で日本人の板前にオーダーする際に自己弁護してしまうわけである。しかし、これが
「正しい」と言っているわけではない。いい例を挙げると、うちの馬鹿兄貴は、日本で一度も包丁など
握ったことが無いくせに、ロサンゼルスに住みだしてからは寿司屋の板前として結構稼いでいた。
それは、ただ日本人というだけであたかも「腕がある職人」として勝手に思われているだけであり、
決して本当に腕があるわけではないのである。他人種の板前さんでも腕を磨けばいくらでもいい寿司を
握れるのは当たり前である。

ここまで、ビール三本飲みながら書いてきたけど、果たして上のレヴィ・ストロースの食の三角形の説明
は意味が通じているのだろうか?うーん、来週の授業で説明せなならんのだが、いかんせん、難しいので
困ったもんだ。
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by fumiwakamatsu | 2010-01-31 16:38 | 文化人類学

アバターの感想

昨日、「アバター」という映画を観に行った。日本ですでに公開されているのかは知らないけれど、「タイタニック」を撮ったジェームズ・キャメロン監督の新作。極めて簡潔に内容を要約すると、ある惑星に鉱物資源を開発しに行った人類が、そこに住む原住民(原住宇宙人?)と紛争状態になり、その解決のために軍隊が原住民の体に人間の心を転送する装置を作り、スパイとして送り出す。つまり、見た目はまったく原住民なんだが、中身が人間(これがアバターと呼ばれている)の主人公が、現地の習慣や生活様式を学んで行き、その内容を軍部に伝えることで原住民の征服を容易にさせるわけなのだけれど、その間に原住民の娘と恋に陥り、彼らの世界観に感銘し、結局は軍隊に反逆して最後はお決まりのハッピーエンド、やれわっしょい、という内容である。映像のほとんどがCGで作られただけでなく、特殊な眼がねを着けて3Dで映像が見れることから、アメリカでは人気爆発中、やれわっしょい、というわけである。

人類学を学んでいる者としては、非常に複雑な気持ちにさせられる映画である。まず第一に、この主人公の役割は、実際の紛争地域に派遣される人類学者の役割をモデルにして作られたであろう点。過去も現在も、人類学者はアメリカの軍隊と密接に関わっており、紛争地域の住民の中に「溶け込む」ことによって、現地の社会構造や生活様式を「内部の視点」から軍部に伝え、植民地的統治を容易にする役割を果たしてきた(現在のアフガンやイラクにも人類学者は結構います)。アバターの場合は、ただ舞台が他の惑星に変わっただけである。第二に、自然=文化という人類学者の作った単純な神話が、アバターの原住民に投射されている点である。アマゾンの奥地のような場所に原住民達は住んでおり、彼らは森や動物や大地と心を通わせることができる設定になっている。ようは、機械文明に侵された人類に対比する形で、自然と共に生活する「高貴な蛮人」としての原住民のイメージが構築され、そこに善悪の二項対立が刷り込まれる単純なプロットが生まれるわけである。ジェームズ・キャメロンは人類学の負の遺産をわざと抽出してこの映画を作ったのか?と疑いたくなるような映画であった(本人は良かれと思って作ったのだと思うけど)。

そして、これは手垢の着いた批評だが、結局この映画のあらすじは白人優位主義を上塗りするためのイデオロギーに過ぎない、という点である。「ダンス・ウィズ・ウルヴス」然り、「ラスト・オヴ・サムライ」然り、原住民(もしくは現地民)の内部に同化していく白人男性が、その中で指導者の地位を確立していき(途中で現地の女性と恋に陥ってセックスし)、同じ白人、もしくはそれに代表される西洋文明という敵に抵抗するために、その白人男性の指導の元で原住民が団結して戦うわけである。このプロットに見られる白人優位主義とは、単純な「白人対非白人」という対立関係を超え、白人(もしくは西洋文明)に対する抵抗という主体的な関与すらも、結局は「おめえら白人に頼らないと何もできないんだぜ」というメッセージを刷り込ませることによって、一枚上手のイデオロギーが上塗りされるわけである。さらに、途中である原住民女性とのセックスは、「白人にしかお前達の最上級の女性は占有できないんだぜ」というメッセージを送ることで、象徴的に原住民男性の権力を去勢する効果があるとも解釈できる。アバターは、幾分違わずこのプロットに当てはまってたわである。

さて、植民地主義や白人優位主義の批判的解釈をハリウッド映画にするのは、結構誰でもやっていることなのでどうでもいいのだが、個人的にこの映画の斬新さに惹かれたのは「仮想の原住民」というのが非常に丁寧に作り上げられている点である。上にも述べたように、この映画はほぼ完全にCGで作られているため、登場人物はあくまでも仮想に過ぎない。人類学を学ぶ者がこの映画を観ればすぐわかるのだが、アバターの原住民達は、驚くことに、モヒカン族の頭髪を持ち、マオリ族の刺青を身体に刻み、バリ人達のケチャダンスを踊ることが出来る。つまりは、実際にいる異なる原住民の要素を圧縮して作られたのがこのアバターの原住民である。おまけに、「ナウシカ」や「もののけ姫」などにジェームズ・キャメロンは明らかに影響されており、動物と原住民との意思疎通の仕方が宮崎駿流なのである。この「どこにでもいるはずなのに、どこにもいない」という仮想と現実が交錯した形で原住民のイメージが作られているところが、おそらくこの映画の新しい点であり、また今後CG映画が主流になっていく上で、再生産される可能性があるのではないだろうか。それがどのような効果を生むのかは別として、個人的には新たな形のフェティッシュが生まれたな、と考えている。

と、いうわけでビールを3本飲みながら適当な映画批評をしみました。何にせよ観る価値のある映画です。やれわっしょい。
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by fumiwakamatsu | 2009-12-22 16:46 | 文化人類学

意外にも人気

非常に驚いたのだが、2年半も日本にいっている間に同じトピックについて研究している院生が
うちの大学だけで他に3人も増えていた。1人は政治学、1人は社会学、そしてもう1人は歴史を
専攻している。しかもそのうち2人はすでに査読論文を出版している。あと1人は今年大学院に
来たばかりだそうだ。一体、いつの間にこのお題がここまで人気を博すようになったのやら。

そのうち社会学の院生とこの前初会合してきた。正確に言うと、彼はデンマークの大学から
うちの大学に客員研究員として来ている。同じく実地調査をする分野だけあって、彼の方が一年
早いものの同じ人物とインタビューしていたり、気味の悪いほど自分の研究と似ているのである。
最初はお互いに警戒し合うような空気が少しあったが、話しているうちに、実地調査中に
同じような行き詰まりを感じたり、共通の経験や課題が見つかったのですぐに打ち解けた。
そして、やはり社会学者だけあって理論的な切れ味は抜群であった。こちらは人類学だけに
実地調査中の笑い話しか提供できず、少し悔しい思いをする。

ただ、1つ言えることは、彼が舞台で演じられる劇の演出しか見ていないとすれば、自分は
舞台裏で演出を作り出しているところを見てきたわけである。その違いを、ただ単に経験的に
内容の濃いデータを得られたとして片付けるのは簡単なのだが、それだけでは芸が無さすぎる。
問題は、舞台裏の経験からいかに理論的に新しいことを言えるかなのであって、舞台裏の経験
そのものは無価値に等しい。

さて、1つ困ったことにはやはりこのトピックに携わってると(特に英語で論文を書いてしまうと)、
メディアの人間が臭いを嗅ぎつけて来るようである。自分も日本にいた時点で、メディアの人間に
嫌な思いをさせられたことがあったが、彼の場合は現在某環境団体の船に乗船してドキュメンタリー
番組を作っている某有名テレビ局からインタビューの依頼があったそうだ。どのようなことを話しても
曲解されるだけなのを知っている彼は、もちろん依頼を断った。「メディアの人間は、名前が知れ
渡って有名になれることが、学者にとってもさぞ喜ばしいことだ、という前提で話しをしてくるのが
腹が立つ」と彼。全く同感である。
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by fumiwakamatsu | 2009-02-26 15:03 | 文化人類学

とてつもなく内輪ネタ

以下の文章はフィールドワークを終えたハーバードの友人が送ってくれたEメール。
これはフィールドワークという特殊な経験をした者だけが、そして、エヴァンズ・
プリチャードという人類学の大家のことを知っている人間しか受けないネタではありますが、
読んだときに笑いが止まらなかったので載せてみることにしました。

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Dear all,

Just read something that has me crackin' up!!! Hopefully those of you
currently "in the field" will take heart.

Michael Gilsenan (British trained anthropologist who has worked in
Egypt, among other places) writes about his return to Oxford from
Egypt in 1965 after a year of fieldwork. He goes to have a chat with
his advisor, Evans-Pritchard, about a mulid (commemorative festival)
of a Sufi saint, Ahmad al-Badawi (13th century), in the Delta region
of Egypt. Evans-Pritchard had spent a number of years in Egypt.
Gilsenan writes:

"Feeling deeply inadequate to the task of 'doing fieldwork', I was
badly in need of guidance. Evans-Pritchard listened. Then he leant
closer and with a disconcerting smile, asked the only ethnographic
question he ever posed in my three years of research and writing: 'Do
they still have those carved sugar figures of camels fucking?'
Startled, as I was meant to be no doubt, I confessed I had not noticed
any. And that was that. We went to the pub, both of us no doubt
profoundly disappointed in me in different ways."

Gilsenan, Michael. 2000. Signs of Truth: Enchantment, Modernity and
the Dreams of Peasant Women. The Journal of the Royal Anthropological
Institute 6(4):597-615.
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by fumiwakamatsu | 2008-12-12 23:18 | 文化人類学

特攻機の科学技術

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靖国神社の遊就館に行くと上の「ロケット特攻機」のモデルが展示されている。ミギミギしたイデ
オロギーが蠢く同館だけれども、この特攻機を見るだけでも行く価値はあると思う。これは、輸
送用の大型飛行機の下に取り付けられ、出撃時に取り外されるようになっている。そして後部に
あるジェットの勢いで敵艦目がけて突撃するわけである。たしかに当時のゴツゴツした他の飛行
機と比べると、綺麗な流線型をしている。しかし、予算の都合で量産されることはなく、数回だけ
使われて終戦を迎えたそうだ。

さて、なんでこんな飛行機マニアのような話をしているかというと、じつはこの特攻機を設計した
エンジニアが戦後にとある有名な乗り物を設計したからである。この空気抵抗を極力減らした流
線型の乗り物をどっかで見た事はないだろうか?

鋭い方はお気づきかもしれないが、新幹線である。そのエンジニアは三木忠直という人物で、戦
前は空軍の設計部に所属しており、戦後は新幹線計画のために国鉄の技術部に移った。新幹
線計画は戦前から「弾丸列車計画」としてすでに企画されていたのだが(英語で新幹線のことを
Bullet Trainというのはここからだ)、それを実現するだけの技術が無かったそうだ。そこで、空
気抵抗を減らすノウハウを知っていた三木が呼ばれたそうだ。

面白いのは、三木が初期に設計した新幹線のモデル。線路を使うのではなく、ただロープを張
り、そこに飛行機のような新幹線をぶら下げる、という案だったそうだ。そして先頭と後部にはプ
ロペラが付けられて風力で進む。車輪を使わない分、摩擦も減ってより早く走る。まさに飛行機
と列車の合体案だったそうだ。残念なことにこの案はコストがかかり実現しなかったそうだが、
新幹線の流線型は彼の案から発展したらしい。

戦時中の技術が戦後に意外な形で応用された例は他にも幾つかある。マシンガンの薬莢を自
動的に取り替える技術を転用して田植えのためのコンバインが発明されたり、戦時中に使われ
ていた無線技術をソニーの創始者が転用してラジオのトランジスターを作ったことなどがいい例
だ(ちなみに我が家の母方の祖父は、戦後になっても真空管を作る工場を経営していたそうで、
零落の憂き目をあったそうだ)。戦争と聞くとネガティブなイメージしか思い浮かばないけれども
技術発展という視点から考えると功績は大きい。

ちなみに、上の話はMITで科学史のポスドクをしていた日本人の研究者の講演で聞いたのだ
が、どうやらNHKのプロジェクトXで三木を取り上げた特集があったそうだ。たしかに好きそうだ
わな、こういう話。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:58 | 文化人類学

「夢はそれに向かって努力すればかならず実現する」

以下、とある人類学者の論文でイデオロギーの作用について述べた部分を抜粋。

「、、、イデオローグの嘘が人々に信じ られるためには、彼はほとんどの場合において嘘ではな
く本当のことを言う男でなければならない。ひとつの嘘を信じさせるために、いったいどれだけの
本当のことを言わねばならないの だろうか。おまけに彼は重要な嘘は何一つとしてつくことがで
きないのである。もちろん嘘を信じて人々が行動しても、なおかつその結果によって裏切られる
ことがないようになっていれ ば、その嘘は露見することなく信じられ続けることもありうる。

たとえば「夢はそれに向かって努力すればかならず実現する」と、心にもなく吹聴しているイデ
オローグがいて、心の中で はそんなことを信じる奴は馬鹿だ、実際にお前らのうちで夢を実現
できる奴なんか10%もいないんだと思っているかもしれない。しかしこのイデオローグの煽りに
心を動かされた多くの 人々が、自分の夢に対してより多くの注意を払い、それを状況にあわせ
て修正しつつ、その実現をひたすら目指して努力するならば、多くの人々が夢を実現させるとい
う結果に終わるかも しれない。イデオローグは、自分は嘘を言っているつもりでいても、実際に
は彼は本当のことを言ったことになってしまう。」
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:46 | 文化人類学

労働のカジュアル化

東京、ロンドン、ニューヨーク。この三都市が80年代後半より似たような都市開発を進めて来た
と主張する学者がいる。80年代後半より情報技術の発展と金融市場の自由化が進み、三都市
の中心部には金融系多国籍企業の司令中枢部が置かれるようになった。そして購買力が高ま
ったエリート層向けの消費施設や住宅施設が増え、都市空間が優美化されていく。

その反面、これらエリート層の仕事に奉仕するための職が必要となって来る。レストランなど直
接他人に尽くすようなサービス業だけでなく、オフィスワークなどの同じ職場を共有する一般職
のような場でも奉仕階層が増える。この奉仕階層では、雇用形態は不安定であり、常に安い賃
金で雇えるよう入れ替えが激しくなる。これは職のカジュアル化と呼ばれている。

さて、この理論は90年代初頭に発表されたのだが、六本木ヒルズの絢爛な姿や派遣社員の増
加に象徴されているように、かなり的を得ているように思える。格差社会と言えばそれまでなん
だが、面白いのはなぜか奉仕階層に起こるカジュアル化が肯定されるような言説が溢れている
点だ。「派遣の品格」というドラマが流行ったり、「自分探し」と銘打って留学がもてはやされた
り、なぜ奉仕することのプライドやかりそめの自由が賛美されるようになるんだろうか?

これらの考えが奉仕階層を搾取するために作られた虚偽意識を蔓延するイデオロギーだと古
典的なマルクス的解釈をするのは簡単なんだけれども、日本に帰って来てからその露骨さに驚
かされてしまう。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:38 | 文化人類学

労働を消費する

先日、日記で労働のカジュアル化を肯定するイデオロギーについて書いたけど、今日ある学会
で「なるほど」と納得する話を聞いた。しかもそれは学部時代の指導教官の発表だった。

彼は定時制の高校で英語教師をしながら労働者階級がどう再生産されるか調べていたのだ
が、今や彼の生徒達も三十路後半となり、高校卒業後の人生を追って研究を続けている。そし
て今日の発表のトピックは「正社員のフリーター化」というものだった。

バブル崩壊後の日本では新自由主義(組織の介入を入れず個人が市場を通じて自己の利益を
最大化すべきという思想)が浸透し、同時に雇用体系も年功序列や終身雇用など、会社が労働
者を守るような体裁を取らなくなった。このような経済構造の変化で、もちろん正社員として雇用
される数は減り、以前も述べたように契約社員やバイトが増えて行くわけなのだが、ではそこで
彼らを動機付けているのは何か?

そこで彼はリクルートなどの人材派遣会社がどのように派遣やバイトを宣伝しているか、その言
説を80年代後半から追っていき、そこに見られるのは「労働を消費する」イデオロギーだと言
う。つまり、あたかもお洒落な服を買って自分らしさをアピールするように、派遣やバイトなどを
商品のように消費するように労働を宣伝しているわけである。そこには正社員に付きまとう制度
的なめんどうさ(上司との付き合いや無償の残業)から自由になれる個人をアピールし、貧乏で
も夢を追うことが肯定される点が強調されている。もし職場が自分らしさを消してしまうようなら
ば辞めればいい、次の職場を探せばいい、と訴えることで、企業側からすれば常に安い賃金で
雇うことができる流動化した労働者が手に入る。そして、当たり前だが不可能な自己実現の夢
は年を取る度に消えて行くわけである。

労働を消費する商品とすることで正社員がフリーター化すると指摘した点は面白いが2つ疑問
が残った。一つは新自由主義が浸透する前に「一般職」という形で正社員でありながらも女性
が奉仕労働に取り込まれていた男女格差の連続性が蔑ろにされていた。もう一つは、広告の言
説だけでなく、底辺の正社員職と比べると給与や労働時間の面で実際に派遣やバイトの方が
条件がいいのでないか、という点だ。少し「新自由主義根悪説」に偏っていたのが残念だった。

しかし、希望や主体性という個人の尊敬の根幹となるものを社会構造に還元して考える癖は彼
に植えられたのだなと再確認した。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:35 | 文化人類学