夜行日記
2011-01-25T07:23:59+09:00
fumiwakamatsu
Anthology & Anthropology
Excite Blog
エヴァンズ・プリチャードについて その2
http://fumi79.exblog.jp/14803352/
2011-01-25T07:27:55+09:00
2011-01-25T07:23:59+09:00
2011-01-25T07:23:59+09:00
fumiwakamatsu
文化人類学
Renato Rosaldo (1986) made a famous argument that when Evans-Pritchard, annoyed that no one would speak to him, ended up gazing at a Nuer camp of Muot Dit “from the door of his tent”, he rendered it equivalent to a Foucauldian panopticon. The logic seems to be that any knowledge gathered under unequal conditions serves a disciplinary function. To me, this is absurd. The panopticon was a prison. Prisoners endured the gaze, and internalized its dictates, because if they tried to escape, or resist, they could be killed. Absent the apparatus of coercion, such an observer is reduced to the equivalent of a neighborhood gossip, deprived even of the sanction of public opinion.
]]>
理想の子供の数について
http://fumi79.exblog.jp/14338260/
2010-11-03T15:14:30+09:00
2010-11-03T15:12:32+09:00
2010-11-03T15:12:32+09:00
fumiwakamatsu
雑記
酔っ払いの父親曰く、「お前なんか、わしが酔っ払ったときにたまたま出来た子供だ」そうである。パイプカットをすると告げられれたとき、母親は大賛成だったそうだ。
さて、酔っ払いの話はさておき、理想の子供の数について考えることがある。結婚したからというのもあるのだが(報告が遅れましたが3月に入籍しました)、今週の英語版TIMESに掲載されていた「一人っ子特集」という記事を読んで色々と考えさせられた。
不況が続くアメリカでこのような記事が載せられるのも納得のいく話である。アメリカでは子供1人を育てるのにかかる費用は平均2千500万円(大学の費用を抜きにして)。たとえ夫婦共働きであっても、景気の見通しが付かない現在では、2人目以降の子供を出産するのは躊躇してしまう。しかし、その反面、社会的通念として「1人っ子は可愛そうだ」という言説が流布している。1人っ子は、甘やかされ、我侭になり、寂しい人生を送る、という考えは、国を問わず、当たり前のこととして受け入れられている。子供が1人しかいない夫婦は、家族からだけでなく、周りの人間から「いつ2人目を作るんだ?」という問いを常に投げかけられるものである。
そこで、この記事は「1人っ子で何が悪い?」という論調を前面に出して書かれている。まず、19世紀後半のアメリカの心理学者が、全く科学的な根拠もないまま「1人っ子諸悪説」を捏造し、あたかも社会的病理として「1人っ子は悪い」という神話が生まれ、当時の中流階級に浸透していった点を指摘している。さらに、子供が多ければいい、という考えは、労働力として子供が役立った時代には説得力があるが、現在のように子供が高等教育を受けるが普通となり、自立した大人となるまでの養育期間が長くなると、夫婦にかかる負担は大きくなるので説得力が弱まってきている。そして、実際に1人っ子の社会性について統計的に研究している社会学者の調査を紹介している。複数兄弟がいる家庭の子供と1人っ子の行動・性格を比較検証してみたところ、特に1人っ子に限って不適切な行動・性格を備えるわけではないそうである。何をもって適切・不適切の境界線を引いているのかは疑問が残るのだが、この社会学者の説得力があった点がある。それは、たしかに複数の子供より、1人っ子のほうが親の愛情や時間を注がれる割合が高くなるわけだが、だからと言って、1人っ子が甘やかされたり、我侭になったりする可能性が高くなるわけではなく、むしろ、1人っ子のほうが自尊心が高く、大人になっても成長意識が高くなる、という点である。
この記事は、最後に、1人っ子でも偉業を成し遂げた歴史的人物(ルーズベルト大統領やエルビス・プレスリー等)を紹介し、子育てにかかる経済的負担、子育てと夫婦生活のバランス、そして夫婦のキャリア志向などの要素を考慮した上で、子供を1人だけにするか、それともそれ以上にするか、選択をすればよい、と締めくくっていた。
まあ、なるほどね、である。そこでいざ我が身に振り返り、一体何人子供を作ればいいか、と考えると、やはり難しい。当たり前ではあるが、このような判断をするとき、判断材料となるのは、自らが育ってきた家庭環境しかないからである。3人兄弟の長女として育った嫁は、やはり3人がベストだと考えているし、5人兄弟の末っ子として育った自分は、絶対に5人は多すぎる、と確信している。よく「子供の頃は兄弟が多くて楽しかったでしょ?」という質問を受けるが、そんなことはなかった。別に常に兄弟仲良く遊んでいたわけでなく、むしろ、自分は兄貴達を反面教師としていたので、子供の多さに惹かれることは何も無い。でも、1人っ子はさすがにな、と躊躇してしまう。たとえ少子化が進んでいる現在の日本でも、少なくとも2人は欲しい、という意見が多いんじゃないだろうか。
しかし、現在のところは1人っ子でもいいんじゃないか、というのが個人的見解である。まだ自分が定職に就いておらず、経済的に不安定だというのが一番の理由だが、たとえ状況が改善されたとしても、子供が1人だけのほうが家族としてのバランスが取れるように思う。今後も夫婦共働きであり続けるし、自分は家でも読んだり書いたりする時間が欲しいし、頻繁に家族旅行もしたいので、子供が1人以上だと子育ての喜びよりも負担の方が大きくなるように思う。先述の記事でも喚起を促していたのだが、1人目の子供が生まれ、子育ての喜びに感銘を受けて2人目を作る夫婦が多いのだが、同じような喜びを享受できる保障はない、そうだ。
まあ、パイプカットをする時期も含め、こういうことは嫁とじっくり相談して決めればいい話である。
]]>
なぜ赤ちゃんはかわいいのか
http://fumi79.exblog.jp/14338245/
2010-11-03T15:11:29+09:00
2010-11-03T15:09:30+09:00
2010-11-03T15:09:30+09:00
fumiwakamatsu
雑記
この問いは単純に「それは赤ちゃんだから」と答えてしまうし、誰も赤ちゃんが可愛いいことに対して疑問を挟まない。しかし、よくよく考えると不思議ではある。なぜ大人と比べて、赤ちゃんはずばぬけて可愛く見えてしまうのか。なぜ、よしよししたり、抱きたくなったり、肌をすり寄せたりしたくなるのか、と。たとえ肉親であっても、大人に対してそんな行動は一切とらないはずである。
しかし、この問いに進化論の視点から直接答えようとした学者がいた。もうすでに亡くなってしまったが、うちの大学で教鞭をとっていた故ステファン・グールドという化石学者である。彼は「ミッキー・マウスに生物学的敬意を払って」という論文の中で、このように述べている。
「可愛い」という感情が起こるのは、何の理由もなく起こるのではなく生物学的な理由が背後にある。それは、「可愛いさ」を引き起こすものに対して、常に周りが注意を惹き、手の届く範囲に寄り添い、危険物から守る介護の役目を果たさせるために、そのような感情が起こるように仕組まれている。グールド曰く、これは哺乳類にとっては非常に重要となる感情である。というのも、他の動物と比べ、哺乳類の赤ん坊は未発達な発育状態で生まれてくるため、産後も母親の庇護と授乳が必要となる。従って、母親の注意と介護を呼び寄せるために、哺乳類の子供は「可愛さ」を引き起こす容姿に進化していった。
ここまでの話だと、一般的に言われている「母性」について小難しく語っただけに過ぎない。しかし、グールドはダーウィンの論文を引用しながら、「可愛さ」を引き起こす容姿には一般的な法則があるという。以下の論文に挿入されている絵を見て欲しい。
この挿絵の人間や他の動物に共通しているのは、
1)顔全体の割合に対する目の面積の大きさ
2)おでこの出っ張り具合
3)横から顔を見たときの、鼻から頭部までの幅
4)顎の引き具合
が、子供から大人になるつれて変わってくる。つまり、子供に共通している特徴(目が大きく、おでこが出て、顔の横幅が小さく、顎が出ている)が、引き金となり、それを見るものに対して「可愛い」という感情を起こしている。上に述べたとおり、哺乳類の赤ちゃんは特殊な状態で生まれてくるため、そのような引き金に反応するよう、我々は進化の過程でプログラムされてきた、というのがダーウィンの言い分である。
さらにグールドが述べている点で面白いのは、論文のタイトルに入っている「ミッキーマウス」についてである。ミッキーマウスは、ディズニーが作り出した当初と現在とでは、劇的にキャラ設定と容姿が変化した。当初のミッキーマウスは、成人という設定で、人間や他の動物に対して常にイタズラを働く小悪魔的な存在だった。しかも、その容姿はというと、鼻が細長く、細目で、顎を引いていた。それが今やどうだろう。ミッキーは、魔法を操ったりするものの、”子供のように”純粋無垢な小さなヒーローという設定である。そして、同時に、目が大きくなり、鼻は引っ込み、顎が出て顔が平面になった。このような容姿の変化をディズニーが意図的に操作してきたのかは別にして、「可愛さ」という感情を引き起こすよう、その特徴を変えていったことに対しては、化石学者として「生物学的敬意を払う」に値する、とグールドは言うわけである。
自分は生物的・進化的決定論に関しては常に疑問を挟む人間だが、いざ、下の息子の写真を見ると、そんな疑問はふっとんでしまう。
たとえまだ実物を見ていなくても、パソコンの画面に対してつい頬ずりをしたい欲求に駆られてしまう。なるほど、これほど「可愛さ」の感情は、進化によって深くプログラミングされているのか、と。そこには個人の自由意志などなく、つい体が動いていしまうものがある。おそるべし、進化の力。その威力はすさまじい。
というわけで、小難しく述べた子供自慢第1弾でした。今後も嫌ほど続きます。]]>
名付けについて
http://fumi79.exblog.jp/13173831/
2010-04-19T05:15:22+09:00
2010-04-19T05:15:12+09:00
2010-04-19T05:15:12+09:00
fumiwakamatsu
文化人類学
名付け、という行為は考えてみるとても面白い。というのも、名付けを通じ、生まれてくる子供という個人に対して特定の意味や価値を持たせて、その他一般の子供と区別化させていかなければならない。それと同時に、名前を選定するときに用いられる言葉がどのような範疇から選ばれ、どのような基準を用いて選定していくのか、というのは社会の規範に沿う必要が出てくる。このように名付けという行為は、一見すると矛盾しているように思える。それは、子供を他の子供とは明確に区別するという「個別化」を目指す一方、その名前の言葉を選ぶ範疇や選定の基準自体は社会的に決められた範囲から逸脱してはいけないという規則に従う必要があるからである(アクマちゃんという名前が受理されなくて裁判を起こした親の例を思い出して下さい)。そのどちら側にベクトルが向くか、というのは歴史的・文化的背景に大きく左右されるのだろう。
話をまた中国の例に戻そう。ある人類学者が、1970年代に中国の農村で実地調査をしていたときに、男女によって名付けのされ方が極端に違う点に気づいた。まず、名付けの回数が違う。女性は、一度決められた名前を一生用いていくのに対し、男性は、子供から大人へと変わる通過儀礼の際に一度名前が変更され、さらに、もし成人になってから偉業を成し遂げた場合には、さらに名前が変えられるそうである。また、名前を選ぶときの言葉も、男女によって違う基準が用いられる。女性の場合は、国花である「梅」が多用されたり、また面白い例として挙げていたのが、当時の中国は冷戦下にあったため「反米」という名前を付けられた女の子もいたそうだ。上の毛毛さんもそうであるが、女性の名前に対しては、それほど個人としての区別を意識しているというよりかは、社会の通例に沿い、あまり名前に対する意味を込めずに名付けをする場合が多い。反対に、男性はというと、生まれた当初に親が付ける名前は女性と同じようにいい加減なものの、第一、第二の名前変更時には、儒教の道徳観を反映した名前が姓名判断の専門家によって丁寧に選ばれるそうである。つまり、男性の場合は、名前を変更してく度に’「社会に対してこのような人間になって欲しい」という個別化が、名前に込められる道徳的な意味により鮮明になってくる。このように、名付けといういたって単純な行為からも、男女による格差が再生産される社会制度を、この人類学者はフェミニストの観点から指摘していたわけである。
同じように、個別化の度合いと社会の通例に沿う度合い、という物差しで日本の場合を振り返ってみると、階級や性別により名付けのされ方が極端に違ったのでじゃないだろうか。近代以前の例をとると、まず名字自体が、侍階級にしかなかった。つまり、氏族の永続が重要とされる階級に限り、名字が付けられていたわけであり、その他の商人や農民は、「反物屋の与平」、「~村の権兵衛」という名前しかなかったわけである(名字が普遍化されたのは、明治以降、近代国家が税金を徴しやすくするために、家族という単位で戸籍制度を作ったせいだろう)。また、名前を見ても、中国と同じく、「太郎→勝千代→晴信→信玄」とある戦国武将の名前が変更されていったように、特権階級における男性に限り、名前の変更による個別化とそこに込められる意味の重要性が増すよう制度化されていた。
明治以降の名付け方を見ても、性差による名付けの違いは大きかったのじゃないだろうか。おそらく昭和初期の世代まで、女性の名前には平仮名表記、男性には漢字表記という形が一般的だったと思う。我が家の父方の例を挙げると、祖母は「すゑ」であり、祖父は「松蔵」である(「若松松蔵」ってどうなのよ?と突っ込みたくなるが)。中国ほどではなくても、平仮名表記と漢字表記を区別することによって、名前に個別の意味を与えるかどうか、とういのは性差によって分断されていたように思う(男性名で漢字表記されても、「一郎」「次郎」「三郎」というように、ただ兄弟間の序列だけを示しているともいえるが)。
で、何が言いたいかと言うと、性別・階級に関係なく、一般的に名付けによって子供を個別化するようになりだしたのは、たかが自分達の親世代から始まっただけなのではないだろうか?もちろんその背景には、教育の普及や、家柄の価値の低下や、女性の社会進出、などの要因が挙げられるけど、どの家庭でも、独自かつ常識の範囲に沿う名前を付けるために、苦労と時間を割くようになったのは、たった60年程度の歴史しかないように思える。
昨日、嫁さんと将来生まれてくる子供の名前について2時間ほど延々と話していて、結局最終的には「いい名前を付ける基準ってなんなんだろうね」という結論で終わってしまった。よく考えると基準がないのは当たり前で、それは名付けで悩んできた歴史自体が非常に短いからなのだろう。だからこそ、名付けの基準の無さから起こる不安に付け込み、姓名判断のような商売が成り立つわけだ。
結局、開き直って、「語感がいい」「可愛い」「若松という名字は古臭いから、名前も古臭いほうがあう」という基準を用いて以下の候補があがりました。
女性名:リン、キヨ
男性名:カツキ、シンノスケ、コウスケ、ソウスケ
長々と書きました、結局皆さんにもご意見をお聞きしたかっただけです。]]>
ナショナリズム
http://fumi79.exblog.jp/13024081/
2010-03-21T04:22:43+09:00
2010-03-21T04:22:32+09:00
2010-03-21T04:22:32+09:00
fumiwakamatsu
雑記
子育て
http://fumi79.exblog.jp/13013434/
2010-03-19T01:13:25+09:00
2010-03-19T01:13:19+09:00
2010-03-19T01:13:19+09:00
fumiwakamatsu
雑記
「Let's Sing with Stevie Wonder」
素晴らしすぎる。ページをめくると、スティーヴィー・ワンダーが気持ちよく歌っている挿絵とともに、Isn't she lovelyの歌詞が添えてあった。そして、絵本についているボタンを押すと歌がながれてくる。こんな絵本を持っているというセンスもいかしているが、そんな絵本を売る出版社があることに感動を覚えてしまった。
しかし、子育てというのは楽しそうだ。もちろん子供が自由に育つのが前提ではあるが、ある程度まで親の価値観を刷り込ませて下地を作ることができるかと思うと、それはやりがいのあることなんじゃないだろうか。
「他人が傷つかない嘘をなるべくつくようにしなさい。」
「才能はあっても、それを果たす義務は一切ない。」
「真実よりも矛盾を知ったほうが賢くなる。」
自分が親になったらこういうことを徹底して子供に教えたいと思う。
まあ、嫁さんが同意してくれればの話だけれども。]]>
食の三角形と人種意識
http://fumi79.exblog.jp/12760880/
2010-01-31T16:38:13+09:00
2010-01-31T16:38:11+09:00
2010-01-31T16:38:11+09:00
fumiwakamatsu
文化人類学
人種差別するわけではないけど抵抗感がある、とよく不平を言う。自分も人種観に関しては脱構築
できている方だと思っていたが、やはり同じ感想を持ってしまう。もしカウンターで日本人の板前と
ラテン系の兄ちゃんの板前がいれば、つい日本人の方にオーダーしてしまう(日本語が通じるから
というのもあるが)。寿司という生ものを扱う人間が同じ人種に属していないと、「穢れ」として認識
してしまうのは何故だろうか、これは無意識に存在する人種差別なのだろうか、と反省してしまう。
ここでやはり考えるべきは食べものに対する「清潔さ」と「穢れ」の二項対立がどう人種観にも
刷り込まれているか、ということなのだろう。レヴィ・ストロースが食の三角形で言わんとしていたことが
まさに当てはまるのではないか、と、先日、寿司屋でラテン系兄ちゃんの握った寿司をほおぼりながら
考えていた。結局、味には何の違いも無いのだ、と再確認しながら。
ただの材料が食べものへと変化するには2つの変容過程を経る必要がある、と彼は食の三角形で
説明している。まず最初には、「生もの」がそのままの状態から別の状態へと変化する過程である。
それは「料理されたもの」か「腐ったもの」の2つに別れる。ここで、「生もの」「料理されたもの」
「腐ったもの」の三角形ができあがる。しかし、なぜ「腐ったもの」が食べものとして認識されずに、
「料理されたもの」だけが食べものとして認識されるのか、というと、それは人工的に「生もの」が
変化させられたのか、それとも自然に変化させられたのか、というもう1つの過程の分岐点を経ている
から、である。つまり、まず最初に「生もの」がそれではないものへと変容し、その後には自然では
なく人工的に変容する、という過程を経て、初めてただの材料が食べものだと認識される、というわけ
である。
さて、レヴィ・ストロースが最も強調しているのが、自然から文化(つまり自然が人工的に変化させれた
もの)への概念的な変化を生み出す二項対立が他の分野の行動様式や価値観にも再生産されて行くと
いう点である。食の三角形の中で彼が述べているのは、「料理されたもの」の中でもさらに「焼いたもの」
と「煮たもの」という自然と文化の二項対立が成り立っていると話を進める。つまり、焼いたものというのは
料理の素材に直接火を通すという野生的な行為であり、逆に煮たものというのは鍋や水という他の物を加え
た上で料理する文化的(人工的な手が加わったという意味で)な行為として位置づけられる。さらには、
焼くという行為はどちらかというと男性が家の外で特別な行事のときに行い(例えばバーベキューとか)、
逆に、煮るという行為は女性が普段から家の中でも行うことが多い、という具合に、性による役割分担、
空間の内と外、特別と普通、という具合に他の行動分野でも最初に出来てしまった二項対立が再生産
されていく、わけである。
話を寿司に戻そう。
たとえただの材料が食べものへと変化する過程で「生もの」が「料理されたもの」という自然から文化
への概念化が必要と言っても、寿司は「生もの」じゃあねえの?という批判が出てくるかもしれない。
この点を日本人の文化人類学者である大貫恵美子が逆手を取って説明しているのだが、日本人にとって
自然から文化への概念化の過程は、むしろ「生もの」を「生もの」、つまり自然を自然なものとして作り
上げることこそが文化への変容だと言うのである。例えば竜安寺の石庭しかり、寿司しかり、それは決して
生の素材がそのまま出されているわけではなく、石の配列の計算や、鮮魚を限りなく新鮮な形で保存する
など、自然と見せるためにものすごい人工的な労力と時間が割かれているわけである。つまり、食で言えば
寿司や刺身などの生ものこそ、最も自然が文化へと「料理された」形の食べものだ、ということになる。
こういうふうに自然と文化の逆転された二項対立が日本人の認識構造にある、という仮定のもとで考える
と、最初に述べた人種意識も説明がつく。レヴィ・ストロースが言うように他の分野でも二項対立が再生産
されるのであれば、集団意識の内と外、清潔と穢れ、特別と普通という分野にも二項対立が投影されてし
まっている、わけである。つまり、寿司という生ものは、特別な機会に食べることが多く、内側の集団
(つまり日本人)が作った上で初めて清潔に食べられる食べものだと認識しているのであり、その一つでも
条件が狂うと(つまり外の集団である他人種が作っていると)その二項対立が崩れ、「穢れている」、と
認識して過剰反応してしまうのだろう。
なるほど、こう考えると、人種差別というよりかは二項対立の認識構造の根深さのせいなのだな、と
改めて寿司屋で日本人の板前にオーダーする際に自己弁護してしまうわけである。しかし、これが
「正しい」と言っているわけではない。いい例を挙げると、うちの馬鹿兄貴は、日本で一度も包丁など
握ったことが無いくせに、ロサンゼルスに住みだしてからは寿司屋の板前として結構稼いでいた。
それは、ただ日本人というだけであたかも「腕がある職人」として勝手に思われているだけであり、
決して本当に腕があるわけではないのである。他人種の板前さんでも腕を磨けばいくらでもいい寿司を
握れるのは当たり前である。
ここまで、ビール三本飲みながら書いてきたけど、果たして上のレヴィ・ストロースの食の三角形の説明
は意味が通じているのだろうか?うーん、来週の授業で説明せなならんのだが、いかんせん、難しいので
困ったもんだ。]]>
マイケル・ジャクソン考
http://fumi79.exblog.jp/12688482/
2010-01-18T11:27:56+09:00
2010-01-18T11:28:00+09:00
2010-01-18T11:28:00+09:00
fumiwakamatsu
雑記
率直な感想は、計算された演出だな、に尽きる。こういうことを言うと冷めた意見に聞こえるかもしれないけれど、この人は最小限の労力で最大限の演出を醸し出すことの出来る天才、というのが正しいと思う。普通に考えれば、齢50歳にもかかわらず、あれほど動き回って口パクもせずに歌える、というのは不可能な話である。でも、その不可能なことを可能にさせているのは、周りの演出の上手さに他ならないと思う。バックダンサーやコーラス、その他の舞台演出が最高潮に盛り上げさせた上で、マイケルがその高波に上手く乗っている、という感じだった。
例えば、バックで激しく規則的に踊っているダンサーの前で、水平的なムーンウォークを入れたり、コーラスが盛り上げて最高潮なときに裏拍のリズムでシャウトを入れたり、という具合に、周りとは異なるよう不規則な歌や踊りを披露することで頂点の存在を際立たせていた。決してマイケル自身が1から10まで盛り上げているのではなく、10まで盛り上がったところに11を足している、という具合である。よく見れば、本人自身はそれほど激しく踊っているわけでもなければ、声量だって大きいわけではない(リハーサルを撮影していから、とも言えるけれど)。
ただ、やはり天才的なのは、その高波に入っていくことの上手さが半端じゃないところだ。ムーンウォークに入る前の姿勢や手の位置の置き所や、たとえ小声でも鼻濁音を使ったシャウトの仕方などが完璧だった。おそらくなのだが、この人は、普通の人間が一つのリズムを刻むところを、16ほどに分けて動くことができ、さらに、3、4手先の動作まで瞬間的に頭で描くことが出来る人なんだろう。例えるなら、サッカーの中田がキラーパスを出す前に全ての選手の動きを予測して、間隙を突く、という天才さに似ているのだと思う。だからこそ、最小限の労力で最大限の演出を醸し出せれるのだろう。
というわけで、決して他の人がコメントしていたように、マイケルの純真さ熱狂さに圧倒されることは無かったのだが、その無駄の無い所作には感服してしまった。あと、ジャクソンファイヴ時代の「I want you back」が流れたときに、マイケルがちょっと歌い辛くなっていたのが、昔の記憶などが蘇っていたからかな、と思うと、少しこちらも目頭が熱くなった。こういう変なところで、感動していたけれど、全体としてはそれほど感激することはなかった。なにはともあれ、一見の価値があることは間違いないです。]]>
アバターの感想
http://fumi79.exblog.jp/12540990/
2009-12-22T16:46:03+09:00
2009-12-22T16:45:59+09:00
2009-12-22T16:45:59+09:00
fumiwakamatsu
文化人類学
人類学を学んでいる者としては、非常に複雑な気持ちにさせられる映画である。まず第一に、この主人公の役割は、実際の紛争地域に派遣される人類学者の役割をモデルにして作られたであろう点。過去も現在も、人類学者はアメリカの軍隊と密接に関わっており、紛争地域の住民の中に「溶け込む」ことによって、現地の社会構造や生活様式を「内部の視点」から軍部に伝え、植民地的統治を容易にする役割を果たしてきた(現在のアフガンやイラクにも人類学者は結構います)。アバターの場合は、ただ舞台が他の惑星に変わっただけである。第二に、自然=文化という人類学者の作った単純な神話が、アバターの原住民に投射されている点である。アマゾンの奥地のような場所に原住民達は住んでおり、彼らは森や動物や大地と心を通わせることができる設定になっている。ようは、機械文明に侵された人類に対比する形で、自然と共に生活する「高貴な蛮人」としての原住民のイメージが構築され、そこに善悪の二項対立が刷り込まれる単純なプロットが生まれるわけである。ジェームズ・キャメロンは人類学の負の遺産をわざと抽出してこの映画を作ったのか?と疑いたくなるような映画であった(本人は良かれと思って作ったのだと思うけど)。
そして、これは手垢の着いた批評だが、結局この映画のあらすじは白人優位主義を上塗りするためのイデオロギーに過ぎない、という点である。「ダンス・ウィズ・ウルヴス」然り、「ラスト・オヴ・サムライ」然り、原住民(もしくは現地民)の内部に同化していく白人男性が、その中で指導者の地位を確立していき(途中で現地の女性と恋に陥ってセックスし)、同じ白人、もしくはそれに代表される西洋文明という敵に抵抗するために、その白人男性の指導の元で原住民が団結して戦うわけである。このプロットに見られる白人優位主義とは、単純な「白人対非白人」という対立関係を超え、白人(もしくは西洋文明)に対する抵抗という主体的な関与すらも、結局は「おめえら白人に頼らないと何もできないんだぜ」というメッセージを刷り込ませることによって、一枚上手のイデオロギーが上塗りされるわけである。さらに、途中である原住民女性とのセックスは、「白人にしかお前達の最上級の女性は占有できないんだぜ」というメッセージを送ることで、象徴的に原住民男性の権力を去勢する効果があるとも解釈できる。アバターは、幾分違わずこのプロットに当てはまってたわである。
さて、植民地主義や白人優位主義の批判的解釈をハリウッド映画にするのは、結構誰でもやっていることなのでどうでもいいのだが、個人的にこの映画の斬新さに惹かれたのは「仮想の原住民」というのが非常に丁寧に作り上げられている点である。上にも述べたように、この映画はほぼ完全にCGで作られているため、登場人物はあくまでも仮想に過ぎない。人類学を学ぶ者がこの映画を観ればすぐわかるのだが、アバターの原住民達は、驚くことに、モヒカン族の頭髪を持ち、マオリ族の刺青を身体に刻み、バリ人達のケチャダンスを踊ることが出来る。つまりは、実際にいる異なる原住民の要素を圧縮して作られたのがこのアバターの原住民である。おまけに、「ナウシカ」や「もののけ姫」などにジェームズ・キャメロンは明らかに影響されており、動物と原住民との意思疎通の仕方が宮崎駿流なのである。この「どこにでもいるはずなのに、どこにもいない」という仮想と現実が交錯した形で原住民のイメージが作られているところが、おそらくこの映画の新しい点であり、また今後CG映画が主流になっていく上で、再生産される可能性があるのではないだろうか。それがどのような効果を生むのかは別として、個人的には新たな形のフェティッシュが生まれたな、と考えている。
と、いうわけでビールを3本飲みながら適当な映画批評をしみました。何にせよ観る価値のある映画です。やれわっしょい。]]>
可愛い後輩達
http://fumi79.exblog.jp/10423680/
2009-03-01T03:35:13+09:00
2009-03-01T03:34:46+09:00
2009-03-01T03:34:46+09:00
fumiwakamatsu
雑記
2年半もブランクを空けて大学院に戻ると、同じ指導教官の下につく後輩がたくさん出来ていた。
しかも皆女の子。フィールドワークに行く前は誰もいなかったのに、急に自分が先輩になってしまい変な
気分である。しかも皆優しくて可愛い。この写真は先週末皆で飲んで、キャンパス内にあるスケートリンクで
はしゃいでいたときのもの。酔っ払ったときにはくれぐれもスケートはしないように、良い子は気をつけましょう。
大阪生まれ、大阪育ちのS。
運動神経抜群のA。今度ボストンマラソンに出るらしい。
倒れたAを起こそうとして倒れる前の自分。
「玉当てるなよ、玉!」と叫ぶ自分の股を滑り抜けるA。
左は歴史学部のR。1人だけ学部が違うにも関わらず自室でパーティーを開いてくれた。
左は落語を研究するトルコ人E。右は偽物ブランド商品の流通を研究する台湾人Y。
締めはやっぱりこれで。ちなみに夜中の2時です。]]>
意外にも人気
http://fumi79.exblog.jp/10410913/
2009-02-26T15:03:12+09:00
2009-02-26T15:04:21+09:00
2009-02-26T15:04:21+09:00
fumiwakamatsu
文化人類学
うちの大学だけで他に3人も増えていた。1人は政治学、1人は社会学、そしてもう1人は歴史を
専攻している。しかもそのうち2人はすでに査読論文を出版している。あと1人は今年大学院に
来たばかりだそうだ。一体、いつの間にこのお題がここまで人気を博すようになったのやら。
そのうち社会学の院生とこの前初会合してきた。正確に言うと、彼はデンマークの大学から
うちの大学に客員研究員として来ている。同じく実地調査をする分野だけあって、彼の方が一年
早いものの同じ人物とインタビューしていたり、気味の悪いほど自分の研究と似ているのである。
最初はお互いに警戒し合うような空気が少しあったが、話しているうちに、実地調査中に
同じような行き詰まりを感じたり、共通の経験や課題が見つかったのですぐに打ち解けた。
そして、やはり社会学者だけあって理論的な切れ味は抜群であった。こちらは人類学だけに
実地調査中の笑い話しか提供できず、少し悔しい思いをする。
ただ、1つ言えることは、彼が舞台で演じられる劇の演出しか見ていないとすれば、自分は
舞台裏で演出を作り出しているところを見てきたわけである。その違いを、ただ単に経験的に
内容の濃いデータを得られたとして片付けるのは簡単なのだが、それだけでは芸が無さすぎる。
問題は、舞台裏の経験からいかに理論的に新しいことを言えるかなのであって、舞台裏の経験
そのものは無価値に等しい。
さて、1つ困ったことにはやはりこのトピックに携わってると(特に英語で論文を書いてしまうと)、
メディアの人間が臭いを嗅ぎつけて来るようである。自分も日本にいた時点で、メディアの人間に
嫌な思いをさせられたことがあったが、彼の場合は現在某環境団体の船に乗船してドキュメンタリー
番組を作っている某有名テレビ局からインタビューの依頼があったそうだ。どのようなことを話しても
曲解されるだけなのを知っている彼は、もちろん依頼を断った。「メディアの人間は、名前が知れ
渡って有名になれることが、学者にとってもさぞ喜ばしいことだ、という前提で話しをしてくるのが
腹が立つ」と彼。全く同感である。
]]>
ペーター・スローダイクとブルーノ・ラトゥール
http://fumi79.exblog.jp/10376423/
2009-02-19T15:39:19+09:00
2009-02-19T15:39:10+09:00
2009-02-19T15:39:10+09:00
fumiwakamatsu
雑記
フィールドワークで鈍りきった脳みそでは講演の10%も理解できなかったが、
SphereやNetworkという概念によって空間認識を変化させる、というような
内容であった。二人とも私的生活を保つ内の空間と市場秩序で成り立つ外の
空間という対立を解消させるために、これらの概念がどう役に立つか、という
話だったと思う。
ペーター・スローダイクはその著書の通りシニカルな笑いを混ぜたオタクっぽい
おっさんであったが、ラトゥールの話し方はヒトラーの演説に似た抑揚のつけ方で
見ているだけで楽しかった。しかも、盛り上がっている最中にボソっと呟くごとく
ジョークを入れるのが、絶妙であった。
ああ、しかし、このような偉大な哲学者が講演しても、その内容ではなく話し方
程度しか説明できないのが今の自分の知性なのかと思うと、悲しい。]]>
決め台詞
http://fumi79.exblog.jp/10345025/
2009-02-13T13:44:27+09:00
2009-02-13T13:45:31+09:00
2009-02-13T13:45:31+09:00
fumiwakamatsu
雑記
な引用句を挟むのが好きである。偉人の発言や好きな本からの引用など、その幅は広い。
たとえば、こんなのである。実名は削除したが、以下の引用文はある院生から先ほど届いたば
かりのメールに載っていたものだ。
---------------------------------------―-----------------------------------
The glass is a distillation of the earth's rocks, and in its composition we
see the secrets of the universe's age, and the evolution of stars.
--Richard Feynman, Lectures on Physics, Volume 1
Kent: Is this the promis'd land?
Edgar: Or image of that horror?
--King Lear, V.iii.264-5
Yale College '04
Ph.D. Candidate
Department of English (G5)
Harvard University
――------------------------------------------------------------------------
翻訳すると
――------------------------------------------------------------------------
「ガラスは地球の岩が蒸留して出来たものである。その構成物質を覗くと、宇宙の年齢と星の進
化の秘密が見えるのだ」(リチャード・ヘイマン 物理学講義 第1巻」
ケント:「これが約束の地か?」
エドガー:「もしくはその恐ろしさを映したものかもな」
リア王 第8部 264-5ページ
イェール大学2004年卒
英語学科5年 博士候補生
ハーバード大学
――------------------------------------------------------------------------
なるほど、物理学の本からシェークスピアまで読む幅広い知識を有していることを示し、さらに
はイェール大学卒という高学歴までアピールされている。文句なしである。
ただし。
この引用がつけられたメールは、同じ寮に住んでいる学生寮長の女性から届いたもので、その
内容はこんなのであった。
「3階の女子トイレの入り口側にある便器は、オブラートに包んで言うと決して目を向けれない有
様になっています。この寮に住むj全ての女性の皆さん、公共衛生の管理を徹底して頂くよう謹
んで申し上げます。後始末はしっかりして下さい。」
「う○こをしっかり流しましょう」と注意を呼びかけるメールを送るときくらいは、シェークスピアの
引用など付けないほうがいいと思うのだが。知性の顕示にもTPOがあるとも思うのだが。
ちなみに自分は、大好きな作家、カート・ヴォネガットの次の一文を入れようかと考えている。
"We are what we pretend to be, so we must be careful about what we
pretend to be."
---Kurt Vonnegut, Mother Night]]>
牛丼
http://fumi79.exblog.jp/10293719/
2009-02-03T12:32:49+09:00
2009-02-03T12:32:49+09:00
2009-02-03T12:32:49+09:00
fumiwakamatsu
雑記
昼はメニューが決まっているのだが、夜はビュッフェ形式で食い放題である。
時間に追われている院生にとって料理する手間が省けるのはうれしい。しかも、
値段のわりには料理の種類も多く、栄養が偏る心配がない。
しかし、食には関しては「郷に入れば郷に従え」をモットーにしていたのだが、
年をとってきたせいか、やはり順応しきれないようになってきた。今日はことさら
そう痛感させらえた一日だった。
今日の昼は「アジアンスペシャル」ということで、日本の牛丼、ヴェトナムのフォー、
中華の飲茶から1つ料理を選べることになっていた。久しぶりなので、牛丼を頼んでみる。
すると、シェフとして働いているラテン系の兄ちゃんが、米の入った丼に、焼いたズッキーニ、
ブロッコリー、生の人参のみじん切りをのせていく。そして、「エビかビーフ、どっちがいい?」
と牛丼にはあるまじき質問をしてくる。物は試しに「エビ」と答えた。そして、最後に「ソースは
グリーンカレーとテリヤキのどっちがいい?」と聞いてきたので「グリーンカレー」と答えた。
「はい、牛丼お待たせ」と言われて出されたのは、何やら黄緑の液体のかかったエビ盛り
ご飯だった。正解があるとすれば、それは器と米だけである。
ある国の料理が正しく作られているかどうか、というのは自分は気にしない性格である。
所変わっても現地の人々にとって美味しく作られているならばいいではないか、と考えて
いる。しかし、変に期待させておいて裏切るのはあまりにもひどいではないか。
心なしか、野菜入りエビカレー牛丼はことさら辛く舌に感じられた。
牛丼の吉野家はニューヨークには支店があるそうである。
あと一歩なのだから、早くボストンにも支店を出してくれないだろうか。
]]>
妄想特急再始動
http://fumi79.exblog.jp/10282123/
2009-02-01T09:04:49+09:00
2009-02-01T09:04:49+09:00
2009-02-01T09:04:49+09:00
fumiwakamatsu
雑記
「帰りたくない」と心の中で100回ほど唱えて帰ってきました。
日本での住み心地が快適だったから、というのもありますが、
2年半もブランクを空けていた場所に戻る居心地の悪さに
耐え切れるか、不安でもありました。浦島太郎な上に異国でも
あるわけですから。
しかし、帰ってきたら帰ってきたで意外と早く順応しております。
学部の旧友がまだ数名残っていたり、同じ研究室の後輩が面倒見て
くれたり、果てには大学時代の寮にいた友人と10年ぶりに再会したり、
日本への郷愁を感じる前に暖かい再会に迎えられております。意外にも
自分の居場所があることに自分で驚いております。
さてこのブログ。
某会社で働いていたフィールドワーク中は、関係者に読まれるのを恐れて
全く更新していませんでした。といのも、ある人類学の院生友達が、自身の書く
ブログをインフォーマントに読まれて行動をチェックされていたとの話を聞いた
ことがあったからです。というわけで、フィールドワークについては書きたいことは
山ほどあったのですが(良いことも悪いことも)、自制しておりました。
しかし、ようやく海を渡って自由になったわけですから、これからも妄想を
加速して行きたいと思います。おそらく博論を書いていく上で、噴火するかの如く
妄想・失言が湧き出てくるかと思います。今後ともお付き合いよろしくお願いします。
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/