なぜ?という質問は答えられない

様々な方にインタビューをしてようやく気付いたのだが、何かを強く信じて生きている人に対して
「なぜ~するのですか?」という質問をしてもろくな答えは返ってこない。それは本人も答えを知
らないか、あるいは、誰かが勝手に作った答えを借りて「正しい」答えを用意するしかないからだ
と思う。

例えば、キリスト教徒に向かって「なぜ宣教するのですか?」と聞いたら、おそらく「聖書にキリ
スト教を広めるよう書いてあるから」と答えるはずである。しかし、それはキリスト教徒がすべき
ことと信じている規範を説明しているのであって、なぜ宣教という行動を正しいと思って遂行して
いるのかを答えているわけではない。つまり、ある行動を正当化する規範は説明できても、なぜ
その規範を正しいと思い行動に移しているのか、規範と行動の間にある合理性を当の本人はた
いてい説明出来ないもんである。

自分だって同じである。「なぜ金にもならないのに文化人類学なんて勉強してるんですか?」と
聞かれると、全く答えれない。「人類の間で普遍的に共通していることは何か、または異なって
いることとは何か、追求したいからだ」と答えたとしても、格好良くは聞こえるが、それは文化人
類学の教科書に載っている正しい答えを言っているだけで、なぜ自分がそのような問いを考え
たいのかは説明出来ない。「じつは、高校でニュージーランドに留学したときに現地校でマオリ
語の授業をとり、異文化について考えさせられたからだ」と答えたとしても、例えそれが事実で
あれ、当時は文化人類学のぶの字も知らなかったわけで、現在の自分を正当化するために過
去の出来事を恣意的に選んでロマンチックな語りを作り上げているだけに過ぎない。なんとなく
勉強しているうちに、なんとなく好きになってきて、これで飯でも食えりゃあいいな、というのが本
音だ。高尚なことは言えても、別に高尚な人間ではない。だから高尚で理念的なことを言う人
は、胡散臭いと疑ってしまうのだが、本人も説明出来ないのだから仕方ないな、と開き直る。

なんか話が横道に逸れたけど、ある人の行動の理由を聞いても、その行動の規範の説明しか
出来ないのが当たり前で、不毛な問いをしているわけである。当人でない人がその理由を追求
するには、「なぜ」の代わりに「どうやって」と問いを変えるしかない。「なぜそこまでして~をする
のですか?」という問いを何人かにしてきたけれど、フィールドワーク開始から1年も経ってその
愚かさに最近気付いた、というのがオチです。
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by fumiwakamatsu | 2007-12-10 16:11 | 文化人類学
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