目的論の問題

分析概念に目的論が含まれるのはいいことなのだろうか、という疑問をある方の
民族誌を読みながら考えさせられてしまった。まず問題なのは、人類学は
輸入学問になる傾向が強いことである。輸入学問とは、人類学内部の理論を
使うよりかも、他分野で構築された理論を用いてフィールドワークで集める知識を
学問的知識に翻訳することである。例えばなんだが、「生態系」という概念が
生物学から輸入され、自然と人間の関係を、あたかも他の動物と同じように、
閉じられた生業関係(生産、消費、エネルギーの循環など)に主眼を置いて考えていたのが、
60年代に流行った文化生態学である。ここでは「生態系」という概念で前提となっている
自然と人間との調和・循環的な関係を基にしてしか翻訳することができない。同じように、
政治に焦点を当てた人類学では、政治哲学で議論されている概念を用いてある地域の
制度や組織を検証している。しかし、政治哲学では「あるべき民主主義」や「あるべき
市民社会」という、倫理的に正しいとされる、もしくは、一種の理想型のような形で議論が
進まれていることが多分にあると思う。そこで、政治哲学の中で今最も正しいとされる
概念を用いて現地での知識を翻訳すると、たしかに、議論的には新しい主張を言えるとは
思うのだけれども、本当に現地の社会がその「あるべき」形に沿っているのか、と言うと
疑問に思ってしまう。その概念に含まれている目的論をわざと被せてしまっているのでは、
と思ってしまう。

しかし、だからと言って、「古い」とされている概念や理論を使ってしまうと、それは逆に
「倫理上正しくない」と批判される可能性もある。例えばなんだが、構築主義に基づいて
あるグループのアイデンティティーの歴史的成立を述べたとしても、「構築主義だけに偏ると
戦略的本質主義に基づいて政治活動を行っているマイノリティーの立場を否定している」
というような批判を受けることがある。例え、現地で接した人々の間には「戦略的本質主義に
基づいた政治活動」など皆無であっても、構築主義的立場で物事を語る政治性を批判されて
しまう。こうなると、政治哲学で最も新しく正しいとされる概念や理論を使ったほうが無難、
ということになる。

もちろん、透明で中立的な分析概念など虚構に過ぎないのだけれども、かと言って、
政治哲学の中で最も正しいとされる概念を用いると目的論に終止してしまう。綿密な翻訳と
政治的に正しい翻訳とのギャップをどう埋めていけばいいのだろう、と考えさせられる。
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by fumiwakamatsu | 2007-05-17 01:55 | 文化人類学
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