集合性の表象の問題

人類学者は、よく「〜人は〜する」というような言い方をしてしまう。
(この1文すらも同じロジックにはまっているわけなのだが。)
そして、民族や国民の均質性を自明のものとし、カテゴリー化された
集団の中にある多様性や混合性を隠蔽してしまうことが問題化される。
最もひどい言い方は、そのような民族や国民を「〜文化」というカテゴリーに
入れて固定化・本質化してしまうことだと、さんざん批判されている。

「日本人はタテ社会を好む」だとか「インド人は牛を食べない」だとか、
ここまで単純な文章はさすがに無いが、でも「〜人は〜する」と、つい
言ったり書いたりしてしまう。もちろんフィールドワークをした本人が、
言及している集団がいかに多種多様な個人から成り立っているか
わかっているのだが、それでもこの表象のパターンは無くならない。

なぜ無くならないのか、と考えると、ただ便利だから、としか言いようがない。
といのも、このようなパターンで表象するときは、聞き手や読者が、話者や書き手と
同じ集団に所属しているというのが前提にあり、その「我々」という帰属意識と
対立させて、言及されている「彼ら」との差異を強調するのに便利だから、だと
思う。別に言及している集団が全く均質だと言いたいわけではなく、ただ
「我々」と「彼ら」という区分の仕方が表象する上で都合がいいから、「〜人は
〜する」というパターンにはまってしまっているのだろう。このように単純化された
集合性を避けるために「〜社会では」だとか「〜の地域では」という地理的区分を
用いた表象もあるが、結局は同じロジックにはまってしまっていると思う。

だからと言って、人類学者は集合性というのものは全く架空のもので、独立した個人
しかいない、という立場は取らない。あくまでも個人を結びつけている関連性に焦点を
当て、それを社会的現象として分析・解釈する。ならば、個人を繋いでいる関連性だけ
を焦点に当てて描きだせばいいだけなのだが、それが簡単そうで意外に難しい。個性を
暴き出し合いながらも繋がっている、という状態を表象するのは骨がいる。

、、、なぜこんな話をしているかというと、ランダムなフィールドノートをぼんやりと
眺めながらこれを一体どう繋げれば良いのだろうと、途方に暮れてしまっているだけなのだ。
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by fumiwakamatsu | 2007-05-09 01:20 | 文化人類学
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