Post-ecological commodity fetishism

捏造された映像を用い、後に放送を中止されたコスモ石油のCMがあった。

そのCMはパプアニューギニアでの森林火災の映像で始まる。そして、それは焼き畑農業によって起っているというナレーションが入る。その後に当社が社会事業として行っている米の栽培方法を紹介する。最後には苗を抱え、微笑む青年の姿が映し出される。

無知なため焼き畑農業で生計を立てていた現地人が、我々の稲作事業で環境破壊からも飢えからも逃れることができる、というメッセージである。

このCMを見た時点で明らかに2つの点でおかしいと思った。

1つは焼き畑農業では、おそらく山火事に繋がるような大規模な火災は起らない。昔、人類学入門の授業で見た焼き畑農業の映像では、まず周りに飛び火しないように耕地となる土地の木は伐採される。そして奈良の山焼きのように、雑草だけとなった土地をプスプスと焼くだけである。地面の下に堆積された枯れ葉が半化石燃料となったものに引火して火が大きくなるならわかるが、そんな場所にはまず最初に畑を耕そうともしないだろう。

2つ目に、稲作を習っている人々はパプアニューギニアの高地に住む人々とは全く関連がないはずである。常識で考えればわかるが、稲作などできそうにもない急な斜面の山々で、わざわざ開墾して田んぼを作るなどあり得ない話である。おそらく稲作事業を受けている人々は低地の平らな土地に住む人々であって、焼き畑農業など最初から営んでいなかったはずである。

結局、どこかのNGO団体が1つめの虚偽性を指摘し、コスモ石油も捏造を認めたそうだ。焼き畑による火事とされたものは南米のどこかで起った山火事の映像だった。なぜ自らの社会事業をアピールするために「森林破壊を起こす無知な現地人」を作り出さなければいけなかったのだろうか。

まず考えられるのは、環境破壊の元凶として批判の的になる石油会社が、自らのネガティブなイメージを払拭するために、恰も啓蒙的な立場で環境の悪化を防いでいるというポジティブなイメージを作り上げたかったという点だ。その啓蒙的な筋書きを作るためには、「無知な現地人」を演じる役者が不可欠だった。そこで稲作事業とは全く関連のない焼き畑農業者に架空の罪を被せ、コスモ石油自体は正義のヒーローと成り得た。

しかし、それより重要なのは、このCMが消費者である日本人になぜ受け入れられるか、という点を考えるべきだと思う。

80年代以降、大機企業による第三国での環境破壊が取り上げられるようになったが、間接的であれ、消費という形でその連鎖に取り組まれている人々は幾ばくか罪の意識を負っている。しかし、企業が「環境に優しい」社会事業に取り組んでいるならば、その企業の商品を消費すると罪を逃れることができる気分を味わえる、いわば贖罪効果があるのだろう。環境保全を謳うことによって、企業は自らの対外イメージと商品価値を高めることができ、消費者は贖罪気分を味わえ、一石二鳥な「商品の物神崇拝」が起っていると思える。

と、まあ、こてこてマルキスト的に解釈してみました。なぜこんなことを考えるようになったかと言うと、こないだ100円ショップで買って来たシャンプーに「環境に優しいナチュラルシャンプー」などと銘打ってあったのです。

「エコ」「ナチュラル」「持続可能性」などと、最近環境に優しいイメージを想起する言葉が溢れていますが、それらが商品にくっつけられているとき、一体それはただの言葉だけなのかどうか、と疑ってみるのも悪くはないと思います。
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by fumiwakamatsu | 2007-03-13 02:03 | 文化人類学
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