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「ようはこういうことなんだろう」という説明への徹底的対抗

「人類学実践の再構築:ポストコロニアル的転回以後」を再読。

以前にもこの本を読んでいたのだが、これほど人類学の限界とそれを超えるための
挑戦を明確かつ前面に出した本は英語の文献を含めてないように思える。どの論文も
読み応えがあって面白い。しかし、その中でとりわけ浜本先生の論文が異彩を放って
いる。というのも、ほとんどの著者が自らのフィールドワークを顧みずに、理論的・抽象的に
人類学の限界・挑戦について語っているのに対し、浜本先生は御自身のフィールドで得た
具体的データを前面に出して語られている。これは非常に重要なことだと思う。

例えば、「異種混合性」や「脱領域化」という概念だけ論じたところで、実際、人類学者が
接する人々は、未だに民族主義的であったり土着的であったり、抽象的な概念が示す
方向性とは逆行していたりするケースが多いからだ。どれだけ理論的にある問題を乗り越え、
新たな方向性を示したところで、実際に我々の接する人々が同じような方向性に向かって
いるかは、調査で得られた具体的データに「語らせる」しかない。演繹法の罠にはまることが
最も許されないのが人類学の醍醐味であり、浜本先生の論文はそれを実践している。

浜本先生の主題は差異を語ることの中に潜む誤謬である。我々が差異を語るときは
隠喩的に表示するしかない。例えば、「アライグマ」という動物を全く知らない人に
対してそれがどんな動物かを説明するには「狸」に似た動物というように伝えるしか
ない。しかし、このような「アライグマ」と「狸」という対比に沿って隠喩的に語る
のは、「動物」さらには「哺乳類」という”普遍的”と思っている概念、もしくは
定規のようなものの上で、違いの”程度”を測ることができるという前提に立って
いる。つまり、AとBを対比して差異について語るときは、その異いを測ること
ができる何かしら共通の土台があることを前提としており、その前提が真実だと思い
こんでいる限りは結局のところ何も差異について語っていないのである。それが
浜本先生の仰る誤謬だと思える。そして人類学者はよくこの誤謬を犯してしまう。

具体的に浜本先生はケニア沿岸地域のドュルマ人の間で、自分たちの振る舞いを
説明する際に「キドュルマ」という言葉を使って説明している事象を取り上げて
いる。ここでその内容は詳しく書かないけれども、浜本先生はそのキドュルマと
いう言葉であるものごとの因果関係を説明するときの語り方は、我々の合理性の
範疇で想定する因果関係の説明とはどうしても異なる部分を前面に出している。
そして、ではドュルマの人達の合理性はどのようなものであるか、という答えを
断定的に出すようなことはせず、徹底的に本当の意味での差異に向き合っておら
れる。逆に浜本先生は、なぜ差異を語るときにある共通の土台なり定規があてはまる
と考えるのか、というさらに厳しい問いを読者に向かって投げかけておられる。

正直なところ、浜本先生のように「ようはこういうことなんだろう」という短絡的な
考え方に徹底して対抗するべき、というような教育はあまり受けてこなかった。
どうしても自分を含めて周りの院生は「理論的に何が新しいことを言えるのか」、
もしくは「今まで取り上げなかった新たな事象(例、医療問題、移民など)を
説明するための理論的な枠組みは何か」ということばかりに意識を集中して
しまっている気がする。「わからない」「説明がつかない」ものを素直に認め、
そのわからないものを創り上げている「差異」に対して徹底的に向き合う姿勢を
忘れている。従って、浜本先生の論文は自分にとっては素晴らしい戒めだった。

ただ、今自分がやっている研究を顧みて言えば、「西洋的自己」と対極にあるような
集団や事象(例えばアフリカの妖術、魔術、宗教儀礼など)にだけ差異を求めるので
はなく、「西洋的自己」と全く同化しようする、つまり自らの行為・思考が「西洋的
自己」と共通する「普遍的」な行為・思考と思っているような集団や事象の中にも
逆に差異、もしくはエキゾチックなものがあるのではないか、と思う。だから自分は
科学に焦点を当てている。しかし、あると思ってやっていてもまだ「説明しきれ
ないもの」にぶち当たっていない。科学というものは説明しきれないものを合理的に
説明しようとする営為なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。それでも、
とりあえず、あると思ってやっている。なんだか、最後は辻褄が合わなくなってきた
けれども、ようは「フィールドワークをちゃんとしろ」ということなのだ。
by fumiwakamatsu | 2007-01-15 02:28 | 文化人類学
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