希望について

宝くじを買い続けている人がいるとします。

1等が当たる確率というのは限りなくゼロに近いです。また、例え配当金の低い賞が当たった
としても今まで買って来た宝くじの損額を取り戻ることは大抵できません。つまり、宝くじを買い
続けることで確実に損を出し続けることになります。その不合理はおそらく買っている人が最も
良くわかっているはずです。わかってはいるけどやめられないはずなのです。

では何故やめられないのか?

それは買い続けることによって「いつかは1等が当たる」という希望を想像し続けることができる
からでしょう。つまり、「買い続ける」という行為の連続によって出て来る想像が、損をするという
合理的な考えを上回っているのだと思います。逆に、損だからという理由で買うという行為を
止めてしまうと、「いつかは1等が当たる」という希望を想像できなくなってしまいます。行為を
止めると無に転落してしまいます。

じつは「希望」についてのある論文を読み返していたのですが、どうもしっくりきません。
その論文の中では「希望」を分析概念として捉えているわけではなく、調査対象者の「希望」
のあり方を人類学への批判的鏡とすることを主な目的としているので、詳細には「希望」
とは何かと書かれていません。しかし、希望は知識の再配置(relocation of knowledge)
を続けることにより起る、つまりある分野への取り組みが失敗に終われば新たな別の分野への
知識の応用へと転換をすることによって、希望が生じる、という論調で書かれています。

ここで使われている知識という言葉が少し漠然としており、自分が勘違いしているだけなの
かもしれませんが、どうも「知識の再配置」と言うと、予め作られた考えや思想なりが前提と
してあり、それを1つの分野から別の分野へと応用していく、言わば上から下へと動くような
感じがします。しかし、上で宝くじの例を用いたように、希望とは行為の連続から出て来る
想像のようなものであり、その行為を途絶えてしまうと想像が無に帰すので止められない
状況で出て来る、言わばもっと下から上への動きだと思うのです。「知識」と「想像」という
言葉に違いがあるので、上手く比較できませんが、どうもその論文を読んでいて行為の連続
から来る想像に焦点が当てられていないと思いました。
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by fumiwakamatsu | 2006-12-23 02:51 | 文化人類学
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