一人称について

以前からブログを書きながら悩んでいたのが「一人称にどの言葉を選ぶか?」
という問題です。知りうる言語の範囲では、日本語ほど一人称の違いが話し手の
ニュアンスを変えてしまう言語が無いように思われます。「俺」「僕」「私」「わし」。
会話上では聞き手との関係によって使い分けれるわけですが、不特定多数の
読者に向かってこのようなブログを書く時は何が適切なのかがわかりません。

「俺」を使うほど男らしい性格ではないですし、「僕」を使うほど弱々しくもありません。
「私」を使うほどインテリな雰囲気はなく、「わし」を使うほど年もとってません(広島弁
なら大丈夫な気もしますが)。従って、できるだけ一人称の主語を明記しないで済む
文章を心がけております。必要に迫られれば「自分」という中性的な語を選んでます。

しかし、会話であれブログであれ個人的に使ってみたい一人称は「私」です。近頃、
日本人の院生と会う機会が増えたのですが、同世代の男の方であっても「私」という
言葉を用いても何の違和感もなく、会話を通じて知的な雰囲気を醸すことができる
方々が多いです。うーむ、羨ましい。「私」と会った方ならご理解頂けるでしょうが、
「私」が「私」なんて主語を使うと、全く「私」とは異なる「私」になってしまいます。

アメリカで大学院を過ごすと全て「I」で済まされたので、知的発達の過程で「私」
という独特な主語を用いて人格を形成する場が失われたように思えます。いや、
場というよりはハビタスですよね。こう考えると「私」という主語を用いる能力が
ないことによって、貴重な文化的資本を失っている可能性もあります。ブリュデューが
言っているように、「無意識に身につけたもの」と「後天的に意識手に身につけようと
すること」の違いは非常に大きく、今から「私」の使い方を体得しようとあがいても、
無意識に「私」を使われてきた方との微妙な差異を縮めることはできないのです。

と、いうわけで「私」という一人称を使える男性の方は非常に得をしているように
思えます。もうひがみの反動で、「僕チン」でも使ってやろうか、と思うこともあります。
「僕チンが思うに、アブジェクションという概念の意味するところは、主体と客体との
差異の消失によって起こった意味の崩壊に対する恐怖心、ないし反動、である」
等と書いてみたくなります。まあ、こんなんだから永遠と「私」が使えないのでしょう。

ちなみに、何度か書いたことがありますが、「ワシ」という一人称を使う我が家の姉は
王道を行っていると思います。姉ならば恐いものなど何もないはずです、、、、。
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by fumiwakamatsu | 2006-12-05 03:20 | 文化人類学
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