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極端から極端へのobject petit a

知り合い3人の例を紹介します。

京都に帰省したいたとき、5、6年ぶりにある小学校のときの友人と再会しました。
最後に会ったとき、彼は父親(両親は離婚してました)と喧嘩して家出し、彼女と同棲していました。
しかし、現在は神戸に住み別の彼女と同棲していました。彼は全く変わっていました。
詳しくは知らないのですが、何か金銭的なトラブルを起こして地元には住めなくなったそうです。
そのときある仏教学者の本を読み、今は親孝行をするために生きると決心していました。
その目的通り、美容師になった彼は今では父親に頼まれる度に京都に戻って散髪をしてあげ、
また、親戚の墓参りを欠かさないそうです。彼曰く、前世の業を返すには親孝行しかないそうです。

先日、ある友人の友人の方と飲みに行きました。彼は以前、某有名アパレル店で働いていました。
しかし、薄給にも関わらずビンテージものの古着を買い漁り、消費者金融で借金を重ねたそうです。
一番ひどいときには駅のホームから飛び降りて自殺を図ろうとしたこともあったそうです。その彼は、
ある女性と付き合い出し、アパレル店を辞めて借金返済のために普通にサラリーマンの営業を
始めました。そして今は別の夢があるそうです。それは、田舎の農地に住み、完全自給自足の生活を
始めたいそうです。自分が文化人類学をやっていると知ると、先住民達の「自然の叡智」について
色々質問してきました。

ある女の子の知り合いがいます。彼女は付き合っていた彼氏から暴言・暴力をふるわれても、何とか
しがみついて関係を続けようとしていまいした。最終的に彼女は彼氏に別れを告げられました。
彼女のブログを読むと、そこには独立して活躍する周りの女友達のことを述べ、さらに彼女自身も
今後、男にも負けず強い女性として生きて行く抱負が述べられていました。そして、その後には、
昔、彼女がキリスト教徒に改宗したとき、いかに神が彼女を暗闇から救ってくれたかも述べてました。

「親孝行」、「自給自足」、「独立心」。この3人の知り合いが今目標として掲げている価値概念は、
おそらく世間の道徳規範の中では「非の打ち所のない価値概念」として認められているものでしょう。
一般化を許してもらえるならば、(1)トラウマ的出来事の経験、(2)ある種の宗教的訓戒との出会い
(3)世間一般の「非の打ち所のない価値概念」を希求しながらアイデンティティーの確立、という
パターンが見いだせます。そして(3)の価値概念は(1)の出来事が起る前のものとは極端の位置にあります。

ただ、個人的な道徳判断を許してもらうと、これで問題が解決しているのか、という疑問が残ります。
誰しも醜い矛盾を抱えて生きています。その矛盾に板挟みになって苦痛を味わったことなど、おそらく、
誰しもが経験したことのあるはずです。問題は、その矛盾を冷徹に見据えずに、「非の打ち所のない価値概念」に
訴えて世間に恥じないアイデンティティーを得た所で、根本的な矛盾が解決されるのか、という点です。

こんなことを書いていると実存主義者になっているようで自分も嫌になりますね。程度の差はあれ、
誰もが同じことを繰り返しているのでしょう。ロシアの民芸品のように、1つの人形を開けると、もう
1つの人形が出てき、さらにその人形を開けるとまた別の人形が出て来るように、結局は、矛盾など
永遠に見えないままで、次から次へと出て来る人形に自己投影してしまうのでしょう。そして、その
人形は他者(=社会)によって作られているに過ぎないのです。いや、むしろ、「次の人形を見たい」
という欲望すらも社会によって作られているに過ぎないのでないでしょうか?
by fumiwakamatsu | 2006-11-07 06:11 | 文化人類学
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