ようはどの社会にも観察者という役割がないのが問題なのです

人類学入門の授業を教えていた指導教官が、ある日フィールドワークについて話していました。

「もし、私が朝起きたときに部屋の片隅に変な男が立っていて、ひたすらノートを取っている場面を
想像して下さい。例え私が同じ人類学者だとしても直ちに『何してんだ!出てけ!』と叫んでしまい
ますよ。人類学ではフィールドワークが前提となっていますが、どの社会にも観察者という役割などが
与えられているわけではなく、観察者のようで観察者でないような役割を自ら築いて行く必要があるのです。」

この彼の言葉が今身に染みて理解できます。まったくどの社会でもどの組織でも観察者という役割は
存在せず、だからこそ観察者でなくとも受けれ入れてくれる場所でしかフィールドワークとはできない
ものなんです。そんな当たり前のことを頭では理解しながらも実際にフィールドワークをしに来た
のがそもそもの間違いなんですな。あー、これからどうすっかな。

ところで、この授業のときに指導教官は昔、東京のある下町でフィールドワークをしていたときの
経験を語っておりました。彼は積極的に町内会のイベントに参加してデータを取っておりました。
その中には近所のドブ掃除があるようなときでも町会長さんに知らせてくれるよう頼み、一緒にドブを
さらっていたわけです。そして、今でもたまに日本に帰って来たときに昔の町会長さんと出会うと、
「今度またドブ掃除があるからやってくかい?」と声をかけられるそうです。

ハーバードの教授としてすら認識されないほど溶け込めるのは羨ましい限りです。
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by fumiwakamatsu | 2006-10-28 00:52 | 文化人類学
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