真実の審判者達へ

どこで述べていたか忘れてしまったが、社会学者のブルデューがで以下のようなことを言っていた。
「社会学は人々を自由にする学問である。それは彼らがどれだけ抑圧されているかを伝えるからである。」
おそらく社会科学に関わる研究者ならば誰でも一度は同じ心境になったことがあるんじゃないだろうか?
そして誰もがジレンマに陥るはずである。たしかに「自分は自由だ」と信じている人間が抑圧に気付いていない
ならば、抑圧の構造を俯瞰的に見渡せるが学者が伝える義務を感じるのはわかる。しかし、抑圧の構造を伝えた
ところで本当に被抑圧者は省みて自由を再認識できるのだろうか?おそらく答えは「余計なお世話」である。

これは何も学者に限ったわけでなく「啓蒙主義」という立場に立つ者に共通している傾向だと思う。
例えばキリスト教徒が「人類は皆罪深い存在である。従って、キリストが贖罪したという真実を受けいれ
なければ地獄に落ちるだろう」と言ったとする。「なぜ今まで普通に生きていたのに勝手に地獄に落ちると
言われなければならないのか?」と反論したところで「それは神が定めた掟だから仕方が無い」と返されるだろう。
もしくは、西洋のフェミニストが非西洋社会の父権生を糾弾し、女性の解放を叫ぶとする。そこで
非西洋の女性が「なぜ私は慎ましい妻として幸せな人生を送っているのにそんなことを言われなければ
いけないのか?」と反論する。そこで待っている答えは「それは父権社会があるから仕方がない」という
答えである。マルクス主義の社会学者が労働者に対して語りかけても同じ論理に陥ってしまうだろう。
啓蒙主義者に共通しているのは、神であれ父権社会であれ資本主義であれ、とにかく個人では抗えない
”不幸”を生み出すシステムが偏在しているという”真実”を認識し、そこから解放されるにはまず虚偽意識
からの覚醒が絶対条件であるという思い込みである。啓蒙主義者達にとっては不幸とは無知なことになる。

果たしてそうなんだろうか?無知こそ幸せなんじゃないだろうか?むしろ不幸を伝えることこそが人々を
不幸にさせているんじゃないだろうか?こんなことを書いているのは何も真実の審判者として驕る啓蒙主義者を
批判するためではない。それよりも重要なのは「余計なお世話だ」という声をどれだけ対等に受け入れることが
できるのか、という問題である。幸せや自由へ到達するという目的論ほど嘘なものはないのだから。
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by fumiwakamatsu | 2005-11-21 17:30 | 文化人類学
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