斜めに構えているだけでもいけない

サスキア・サッセンのGlobal Cityを今日の授業で取り扱った。
要約すると金融市場の規制緩和とコンピューター情報技術の発達によりイギリス、ニューヨーク、東京の三都市に
金融企業の司令中枢部が密集し、各都市部内で階層化が同じように発展してきた、という内容。そして、都市の
中心部では空間のジェントル化(ホテル・レストラン・ブティックなどの中上層が消費するお洒落な場が増えること)が進み、
その反面、奉仕階級として移民の流入が活発になる脱国民化(denationalization)が進んできた、と主張している。

サッセンは社会学者なので統計データを基にしてこのようなグローバル化論を提示しているのだけれども、
果たしてこのようなマクロな理論に太刀打ちするために人類学のフィールドワークがいかに応用できるか、
という議論になった。W教授は昔イギリスで中国人移民の研究をしていたのだが、その内容を他の社会科学者に
説明しても「そんな小規模でフィールドワークという主観的な調査を行っても意味がないじゃないか」と反論されたそうだ。
「わしが文化という概念を使って中国人移民の生活の内面性を強調したところで政治学者や社会学者は何の意味も無い、
と言ってきおるんじゃ。よいか、君達も同じような議論に巻き込まれるんじゃぞ。そのときにどう答えを出すべきか、
しっかり考えてないと教授職にはつけんぞ」とのこと。人類学という組織内でならいくらでも統計的調査の客観性
について批判できるのだが、もし地域研究やグローバル化研究という学際的な枠組みに取り込まれると、
そんな実証主義批判なんて誰も聞いてくれないものである。しかも残念なことに、最近の人類学者は、後者のような学部でしか
仕事が見つからないケースが多い。そのときにどうやって人類学という体系から超えた議論に参加できるかが問題になる。

たしかにW教授のやっていることもサッセンなら「ロンドンの都市変革で奉仕階級として取り込まれた
移民に過ぎない」と論破しそうだ。政治学者や社会学者が提示するマクロな理論の骨組みに、ただ「顔」を見せるような
肉付けをして終しまいになる。日本研究をしている政治学の院生に自分も同じようなことを言われたことがあり、
相手を説得できるのような答えができなかった。「君はただのヒューマニストなんだろう?」と一蹴され悔しかった。

社会科学でもなく人文学でもないあやふやな場所に置かれた学問だと、内向的に議論を進めることしかできないんだろうか?
しかし、そんなことが許されるほど世間は甘くなく、人類学はさらに周辺部へと追いやられてしまう。そうなると、
「文明の衝突」のように、人類学者なら気が狂いそうな政治学の理論が平気で出回ることになってしまう。

果たしてどうしたものか?重い課題だ。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-27 14:12 | 文化人類学
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