普遍性と特殊性について

今日は堅い内容。

なぜ木からリンゴが落ちるのか、という質問に対して
Aという民族では「地球に重力が働いているから」という説明が一般的であり、
Bという民族では「誰かが魔術を使って落としたから」という説明が一般的である。
では、なぜAとBの説明が異なるのか述べなさい、という命題があったとする。

Aの説明は普遍的真実であり、Bはまだ理性が発達していない未開人の
説明である、という答えが一般的だろう。では、AとBの説明の違いに見られる普遍性と特
殊性はどれほど根拠があるのか。その根拠を常に疑問視するのが人類学の役割の1つだ。

普遍性が成り立つためには際限なく特殊性が否定される必要がある。
上の例を挙げると、地球の重力の仕組みが誰も魔術をかけてリンゴを落としていない
ことを証明しなければならない。果たしてそういう証明が可能だろうか?
また普遍性とはある一定の空間・場所から発展してきたものであり、それが他の
空間・場所にまで波及していくには他の特殊性を否定するための権力作用が必要となる。
「重力」という考え方はヨーロッパで生まれ、それが他の地域でも通用するようになったのは
植民地化における教育の発展や、「ヨーロッパの言っていることが絶対に正しい」と信じて
盲目的に模倣を試みた弱者の追随の結果である。従って普遍性とは権力という土台がないと
崩れ落ちる可能性があり、際限なく特殊性を否定仕切れる可能性もそれほど高くない。

では特殊性が成り立つためにはどういう根拠が必要になるのか?
上の例だと、Aの説明は「文明の所作」でありBの説明は「未開の所作」という違いを成立させる
ことになる。しかし、その違いの土台となっているのは「社会の進化」という物差しであり、「人類は
未開から文明へと移る過程で理性も普遍的に進化していく」という仮説を前提にしなければ成り立たない。
そんな社会の進化の仮説を客観的に証明するにはタイムマシーンでもない限り不可能だ。
従って、特殊性の差異を主張するには、その差異を裏付ける”普遍的な”物差しが必要となる。男と女は
異なる、と言うときには「生殖器」という”普遍的な”物差しがないとその差異を裏付けることができない。
しかし、上に述べたように普遍性とは完全ではない。もし、”普遍的な”物差しで比較してでしか特殊性
が証明できないのならば、その特殊性は普遍性の否定と同時に否定されることになる。

上に述べたことをまとめると、普遍性とは完全性が欠如していることと同義であり、
特殊性とは差異を強調すると同時にその差異を否定する矛盾の中でしか存在しない。
普遍性も特殊性も無制限に独立して存在する可能性は無に等しくなる。

もう一度上の命題に戻り、どうやってAとBの説明の違いについて語ることができるのか、
普遍性と特殊性という枠組みを抜きにして語ることはできるのか、と考えるとかなり
不可能に近い。でも実際に人類学者はBのような説明をする人々と出会い、なんでそんな
説明をするのか、その理由を明確にしなければならない。これはかなり難しい話である。

人類学を真剣にやるとフィールドワークが嫌いになる人がいる。
「なんで魔術でリンゴが落ちるなんて言うんだ!そんなことを言われると俺が困るじゃないか!」
と逆切れしてしまいたくなるんだろう。でも切れてはいけない。情報提供者を神様のように扱わねばならない。
「相対主義に基づいて他者の社会的経験を人類学的知に翻訳する」なんて言うのは簡単だが実行するのは難しい。
でもその難しさを克服するためにマゾ的喜びを感じてアマゾンの奥地に行ったりするのである。人類学をやっていると自己紹介すると
「自然派なんですね」とか「インディアン好きなんですね」などとよく言われるのだが勘違いも甚だしい。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-22 13:50 | 文化人類学
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