文化産業と芸術の人類学

今日は独立時のインドにおける進歩的芸術家についての講演を聞きに行った。
西洋の近代主義にも染まらず、独立インドの国家主義にも染まらずインド人らしさ
確立していく上で新鋭の芸術家達はどのように主体性が位置づけられていったか、という内容。
1人のキリスト教徒の芸術家(名前は忘れた、が彼がマイノリティーであることが重要)の半生に絞って語られ、
彼の内面で個性・自由という価値観と大衆性・インド人らしさという価値観が相克していることを焦点に当てていた。
ヘーゲル哲学以来、インド人は歴史を作る主体として認められず常に西洋の時間・空間の周辺に位置づけれていたので、
彼は芸術家個人として歴史を作るのではなくインド人全体として歴史を作る主体を描き出す必要に駆られていた。
ここで以前にも述べたUncanny(不安)が絡んできて、相矛盾する価値観の二重性にはさまれたとき、
一種の余剰が生まれる。講演者はこの余剰の部分をDefered Fulfilment(不完全な達成)として表現していて、
ポストコロニアルの状況で生まれるこの不完全性が芸術家の主体性を形作っていた、と述べていた。
講演者がスライドで見せた絵は正直なところインド人の絵として識別できるものがなく、サインのインド名で初めてわかるものだった。

この講演は現在うちの学部が南アジアの専門家を雇うための選考機会として催されているので、教授陣も質疑応答は
かなり突っ込んだものになる。そこで、講演に来ていたC教授がとてもトリッキーな質問をしていた。
「もし私が1人の消費者として彼の絵を購入しようとすると、あなたは彼の絵のインド人らしさをどう説明しますか?」
そこで講演者の女性は「確かに絵そのものにはインド人らしさが表現されてないかもしれませんが、絵の背後にある作者の物語を
語ることによってインド人らしさを説明できると思います」と答えていた。これを聞いた瞬間、「ああ、ひっかかったな」と思った。
彼女は、人類学者として芸術を研究する役割と芸術作品・作者の価値を創造する批評家の役割を区別できていなかったのだ。
これはどういうことかと言うと、前者ならまず芸術自体を社会関係に当てはめ、商品として生産・消費・受容などの社会的側面
を研究する必要がある。しかし、彼女の場合、自らが文化産業の一員となって、商品の価値を作っている語りになってしまっていた。
いわば、例えポストコロニアルの芸術家の主体性を述べていても、それは芸術作品・作家の賛美に過ぎなかった、ということだ。
その後に続く質問もこの点を厳しく追及したものばかりだったが最後まで彼女から納得のいく答えが得られなかった。

じつはこれと全く同じ状況が日本研究をしている人類学者にもあてはまる。
海外に流失する日本のアニメや食品などの商品やメディアを研究する人類学者が最近ことに多い。
これら文化産業の研究は、生産・消費における階級や国民意識への批判として当初は始まったのに、
最近の研究を見ていると、どうも芸術家や広告企業を賛美して終わる、というのが多い。
カルチャルスタディーの負の部分を受け継いだ感じで、社会の文脈に焦点を当てた
民族誌の役割を重要視していない。これは悲しいことだ。

今回の講演者はまだ博士号を取得していないコロンビア大の院生だった。
その割にはとても落ち着いて貫禄があったので、すごいな、と関心した。
しかし、C教授の質問は上手かったな。じつはその前にマイナーな質問をして、
その後に「これは重要な質問ですが」と断った上で、上の一見なんともない質問をしたのだ。
教授職につくのがどれだけ難しいかとても勉強になった一日だった。
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by fumiwakamatsu | 2005-04-14 11:42 | 文化人類学
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