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「われわれはみんなペストの中にいるのだ」

フーコーの「Abnormal」を読んでいて考えたこと。
彼がライ病とペストの管理方法と権力の形成について書いていたとき、どれほどカミュの「ペスト」を意識していたんだろう?
「ペスト」が出版されたのが1947年。Abnormalの元となった講義が行われたのが1974年。およそ30年の隔たり。
フーコーはさておいて、今日はカミュの「ペスト」に絞る。

カミュがペスト比喩で用いたのは人間がたちうちできない巨大な悪を象徴したかったんだと思う。
ペストは定期的に発生して自然消滅してしまうが、それに対する人間の抵抗はあまりにも無力に終わる。
ペストが発生した街では軍隊の管理の下、出入りを禁止させ、発病患者を定期的に検査し、菌の流出を防ぐことしかできない。
つまり、ペストがたらす「死」とは自然が生み出したものでもあり、人間が「管理」と銘打って作り出した死でもある。
ペストとは絶対に逃れることができない「いまわしい虐殺」(P.301)のことだ。

カミュの実存主義は、人間の生には目的がないという「不条理」を直視した上でいかに生きるか、というのが中核にある。
詳細なあらすじは忘れてしまったが、カミュは「シシューポスの神話」で例え話を使って不条理を説明している。
人間を災害から救って英雄となるはずだったシシューポスが神の逆鱗に触れ懲罰を受ける。
罰としてある山の頂まで大きな岩を転がしていくのだが、頂上間近に差し掛かると岩は必ず転がり落ちていくので
永遠に繰り返さなければいけない。カミュの言う不条理とは、岩が転がり落ちるのを見て、「なるほど、そういうことか」
と、全てを受けれいれたときの冷徹なシシューポスの顔だそうだ。目的の無い目的を永遠に肯定する不条理。

内田樹が述べているように、「ペスト」の主題は、自分の外であらかじめ決められた「正しさ」により虐殺が繰り返される
という状況で、いかに「殺すな」という立場を貫くことができるか、という点だ。
ペストの街に残って患者の治療を続けるリウーという医者を通じてカミューはこう語る。

「さしあたって、僕は、自分がこの世界そのものに対してなんの価値もない人間になってしまったこと、僕が人を殺す
ことを断念した瞬間から、決定的な追放に処せられた身となったこと、を知っている。歴史を作るのは他の連中なのだ。」(303)

シシューポスと同じ運命を辿ってしまったリウーは、それでもこう表明する。

「そうして、僕はこう考えた――さしあたり、少なくとも僕に関するかぎりは、僕はこのいまわしい虐殺にそれこそ
たった一つの――いいかい、たった一つのだよ――根拠でも与えるようなことは絶対に拒否しようと。そうなんだ。
僕はこの頑強な盲目的態度を選んだのだ。」(301)

この表明どおりリウーはひたすらペスト患者の治療を続ける。誰も助からないと知りながら。
医者の特権を使って脱出することもできたのに、ついには身内である母も妻もペストで亡くしてしまう。
最終的にはペストの血栓が「外」の世界で発明され街は解放される。結局、リウーがしたことはシシューポスと同じで何の価値もなかった。
しかし、「虐殺」=「正義」という状況の中で「殺すな」という立場を取り続けただけでも、内田が言っているように、
「自分の外部にある悪と闘うのではなく、自分が生きているということ自体がすでに他に悪をなしているのではないかという顧慮をもって
生きること」を彼が実践していたことになる。ここに不条理に対峙する実存主義の倫理観がある。

(今、午前3時なんでまたいつか続き書きます)。
by fumiwakamatsu | 2005-04-10 16:05 | 文化人類学
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