言語と経験

昨日は日本から来た人類学者夫妻のO先生とTさんと一緒にアフガン料理屋へ行って来た。
食に色気のないボストンだが、ここの香辛料の効いたラム肉料理は気に入ってもらえてなによりだった。
美味かったせいか食事が来たときは黙々と食べ続け、その後店が閉まる11時までひたすら人類学談義だった。

話の内容は様々だったんだが、その中で盛り上がったのが経験と言語に関する話だった。
うちのK教授が主体性-文化表象-社会経験のトポロジー(三角形的な結びつき)を提唱しているんだが、
O先生はその三項を別けて考えることが問題であり、言語(文化表象)を介在しない主体性や経験があるのか、という話になった。
そこで自分は言語を介在しない経験だってあるのではないか、ということを医療人類学の民族誌の例を使って反論してみた。
G教授がハーバードの医学部で行った調査で、医学生が知を体系的に学ぶ過程で医療の基準化が起こる反面、G教授が出会った
原因不明の病を持った少年が身体の内にある苦しみを言語化できないときの経験などは言語を介在しない経験の例じゃないのか、
ようは言語では表象しきれないトラウマ的な経験だってあるのではないか、と言ってみた。

しかし、O先生曰く、それは初期マルクスの言っている労働の疎外化と一緒で、労働者の使用価値が市場の交換価値より
常に貶められて決定されるように、言語と経験の場合は、ラカンの言う象徴秩序(自己を認識し始めた時点で、主体は
言語体系に組み込まれ、従って”主体の意味するもの(Signifier)は言語の意味するものとなる”という内容)
から主体の経験の価値が疎外されているだけであって、上の少年の例も、結局は身体内の苦しみを言語を使って語ることが
できるのだから言語の先行性は否定できていない、と主張されていた(おそらく)。ここで腑に落ちない顔をしながら反論できなかった。
そりゃたしかに疎外なんだけれども、それほど言語の先行性を強調していいものか、と考えていた。

今日、そのことを考えながら先週取ったラカンのノートを読み返してみたんだが、自分が思うにラカンも象徴秩序で収まりきれない部分を
強調している気がする。ラカンの鏡像自我は赤ちゃんが鏡を見て初めて「私」という自己を認識したとき、主体と客体の分離が起こることだ。
この時点で鏡に映る自己のイメージが「私」という言葉に繋がるように、主体が言語体系に組み込まれ象徴秩序が形成されていく。
しかし、ラカンはこの象徴秩序とリビドー的秩序が並存する形で主体が存在している点を強調している。
リビドー的秩序とは、鏡に写る自己と言語が統合されたときに過度の興奮とトラウマが起こり、それらが無意識の中に抑圧された形で
残る秩序のことだ。従って主体は常に主体と客体が分離される前の原初の状態へと回帰する欲望を抱えており、
永遠に満たされない欠如に向かい欲望が動いている。このリビドー的秩序は象徴秩序では収まりきらないところにある。
しかし、鏡像の自己はあくまでも幻影で、それは他者(Other)が自己に望む姿を映しているに過ぎないので、結局、象徴秩序を通じて
投影された他者の望んだ自己を求める欲望がリビドー的秩序と繋がって主体が形成されていくことになる。

ラカンによると、主体を形成するトポロジーの構造は象徴(言語と社会的接続)、想像(自己同一化)、本体(英語ではThe Realなんだが、
訳があってるかは知らない。これは主体と客体が分離したときの興奮・トラウマによる起こる効果)で構成されていることになる。
ここで、上に述べたK教授のトポロジーを強引に組み合わせて1)象徴/文化表象(2)想像/主体性(3)本体/経験の関連性を仮定してみる。
(2)の部分はちょっと省略して、(1)と(3)の結びつきを考えてみる。

もし、戦争などの暴力的出来事に遭遇して、主体が過去の自己と断絶されるような経験をした場合、ラカンが鏡像自我で説明した
トラウマや興奮が起こる可能性はないだろうか?つまり完全だった過去の自己とは分離されたので、そこへ回帰し続けるような
欲望が主体を支配する可能性があるように思う。そして、その失われた自己像は他者の欲望によっても形成されていく。
例えばなんだけれども、カンボジアで地雷を踏んだ青年が、家族から「あんたはもう足が無いから働けないわね」と言われ続けた場合、
その青年は「地雷を踏む前の健康な体だったら働けたのに」という悩みに苛まれ、もう戻れない過去の自己像を取り戻したい欲望が
起こってくる可能性がある。たしかに、表象秩序が主体を規定化しているかもしれないが、こう考えると、過去の自己と分断された
経験と象徴秩序との相互作用によって欲望の過剰性、つまりリビドー的意味秩序の拡大が起こることだってありうる気がする。

長々書いて何が言いたかったかと言うと、言語の先行性を強調するよりかは、言語体系(象徴秩序)と経験の相互作用による
+αの部分に目を向けるとまた(2)の想像/主体性の見方が変わってくる、ということが言いたかった。
これはあくまでも自分の勝手な考えであってK教授がこう言ってるわけじゃない(K教授のトポロジーの話はまたいづれ書く予定)。
あと、これは経験がトラウマ的なときはいいかもしれないけれど、それ以外ではどうか疑わしい。
(しかし、日常でも失恋や親の離婚などトラウマ的経験はいくらでもあるんじゃないか?)

ああ、また馬鹿みたいに長い日記を書いてしまった!
Kristevaが難しくて、その反動がここに来てしまった。
お願いだから集中力保って勉強してよね、俺。
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by fumiwakamatsu | 2005-03-20 18:50 | 文化人類学
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