後だしジャンケンについて

乱暴な批判が大嫌いだ。
「この本はくだらない」とか「あの講演は聞く価値ない」とか
一言で良し悪しの判断をする人に対して「じゃあ、てめぇの
研究はさぞかしその上を行ってるんだろうなぁ、あぁ?」という
怒りが沸々と沸いてくる。今日の授業でも同じことがあった。

「Homefront」というノースカロライナにある軍事基地の街の歴史を
描いた民族誌が課題に出ていた。著者のLutzは明らかに反軍事化の立場を
取っていて、基地の拡大に伴って周辺のコミュニティーが社会・経済・環境
等の点で劣悪化していく過程を追っている。戦争や軍隊の正当性が誇張
される影で、足元を見れば人種・性差別、基地への経済的依存、退役軍人に
よる犯罪などが隠蔽されている点を指摘しいる。理論的な内容よりかも、一世紀に
渡る歴史を当地に住む人のオーラルヒストリーを混ぜてつぶさに検証している。

さて、今日のプレゼンを担当した生徒が
「この本はあまりにもイデオロギー的に偏っていて一種の目的論に基づいて書かれている」
と言えば、別の生徒が「まったくそう。著者の歴史的記述はあまりにも選択的で少しも
信用することができない」と乗り、バッシングの大合唱になっていた。教授が本の具体的
な内容に戻そうとしても、まだ数人が批判を止めようとしないので、他の皆が切れ出してきた。
というか、1年生の院生VS2年生の院生という対立構造で議論になっていた(いつもそうだ!)。

自分もあまりにも切れていたので、少し声を震わしながら発言した。

「まず信頼できない選択的記述と言うのなら、信頼できる客観的かつ中立的な記述の
基準をあなたの言葉で説明して欲しい。もしそんなものがあればの話だけれども。そして、
この歴史の記述は目的論に単純に還元されるものではない。目的論とは、1つの最終地点
に向かって歴史が動くような書き方を言うものだが、この著者は重要な出来事、
つまりこの場合は戦争だが、それによって基地とコミュニティーの関係が不平等なまま
再構築されていく点を各時代に合わせて検証しているのであって、1つの目的に収集するような
書き方はしていない。第3章では冷戦期において、軍がコミュニティーをシュミレーション訓練に
使っているほど抑圧的だったのに、最終章では基地の縮小化に伴う問題を指摘してるじゃないか!」

感情的になってたのでこれほど明確に発言したかは疑わしいけれども、こんな内容だった。
先ほどメールをチェックしたら教授から↓のメールが届いていた。

On an unconnected note, I have been mulling over our class discussion today and would like us to further interrogate why Homefront struck several in the class as unduly "biased" when the others authors we've read -- Caldeira, Lipsitz, Harris -- were not subjected to that particular criticism in spite of the clear positions they take on fraught political issues of criminalization, racial inequality, etc. Is it Lutz's narrative style, in particular her choice of the social historian's voice rather than the self-reflexive ethnographer's voice, that made her account seem overly authoritative and by extension too ideological? To restate a question I raised in class, does anthropology, or history for that matter, need to occupy a space of ideological neutrality to be legitimate? Or is it simply that students of anthropology are accustomed to authorizing bias in one form (through the explicit self-positioning of the author) and not another? This brings me to a related question about the constitutive elements of a narrative. Some students all raised the question of Lutz's deliberate "selection" of details to support her account. This of course raises the question of which account -- anthropological or historical -- is not partial and selective? So, again, what is it about Lutz's style or particular ideological position that makes her narrative seem so much more "selective"? In a sense, I'm asking us as a class to engage in a micro-ethnogaphy of readership to better understand how we interpret texts. (As a side note, I'm curious to hear what the other historians in the room have to say about the characterization of history as an interpretive practice.)

昨日の話もそうなんだが、ある本を粉々になるまで批判したところで、自分の研究に
振り返って考えると、その批判を本当に超えるほど素晴らしい研究ができるのか、という話になる。
後だしジャンケンをして勝ったつもりになってもナルシスト的な喜びしか味わえることができない。
そして批判ばかりして、自分の研究を公に発表するのが恐くなるのが一番いけない。

ああ、怒り心頭だったので馬鹿長い日記になってしまった、、、。
そして、今KristevaのAbjectionを読んでいるんだけれどもこれまた難しくて怒り心頭だ。
もっとわかり易く説明しろよな、フランス人のアホーー!!
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by fumiwakamatsu | 2005-03-18 14:42 | 文化人類学
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