恋愛と相互象徴作用論

相互象徴作用論というのがある。
平たく言えば、ある行為(Act)が意味を成すには
2人上の人がお互いに認識し合う型に沿って行動(Action)をしなければ、
その意味が相手に伝わらない、というものだ。例えばなんだが、
無表情なまま片目をつぶったところで、それはただの瞬きでしかなく、
相手と何か秘め事を共有しているという前提で、少し口に笑みを含めながら
片目をつぶることで、ウィンク、という意味を成す行為が生まれる。

従って、行為の前に特定の文脈で意味をなす型(象徴体系)が存在している
のであって、我々の行為のほとんどはその型に意識・無意識に当てはめる
ことによって相互理解を作っている。むしろ、まったく意味のない
行為を公共の場で作りだすことのほうが難しい。歩道でいきなりうつむけに
寝転んで1分間そのままでいれば「この人頭おかしいの?」と思われるだろう。

ここで、愛情表現という相互象徴作用を考えてみる。
特定の人に対して恋愛感情を抱いたところで、その感情を伝えるためには
ものすごく複雑かつ緻密な型に沿って行為を生み出さねば、その感情は理解されない。
鼻くそほじりながら「むっちゃ好きやねん」と言ったところで平手打ちされるだけである。
ものを食べるときの型、歩道を歩くときの型、等等、色んな行動の類の中で最も
綿密に規定されているのが愛情表現の型じゃないだろうか?もちろん、各時代や
地域によってその型は大きく異なってくるのだが、どの時代でもどの場所でもこれほど
複雑化して面倒な象徴体系はないんじゃないだろうか?なんでなんだろう?

と、まあ文化人類学をやっていると、好きな人ができたところで愛情表現の型を
客体化して考えてしまう。好きな人に合わせて最も効果的に恋愛感情を表現するには
特定の場所(夜景の見えるレストランとか)で特定の会話の流れ(まずさりげなく褒めたり)で
特定の身体的距離(お互いの顔の距離は1m以内とか)を保たなければ感情が伝わらない。
こう考えると、とってもめんどっちい。行動に移す前に感情が萎えてしまう。

しかも、恋愛表現の型は漫然として成立しているよりかは、メディア(専門用語を使うと
文化産業)によって意図的に金儲けのために作りだされたれている場合が多い。
4月1日じゃなくて2月14日にチョコレートを女から男に渡すなんて誰が決めたんだ!
と憤ったところで、それはチョコレート会社の策略が上手だからだろう。

「キムタク流告白術」というのがある男性ファッション誌に載っていたのだが、
エレベーターに好きな人と2人きりになったとき、
男:「2人きりだね」
女;「そうだね」
男:「っていうかぶっちゃけ好きなんだけどね」
と、意外性を保ちながら少し仏頂面で男気を見せるとポイントアップ!
なんて、書かれると田舎から来た大学生とか真似しちゃうんだろう。

恋愛感情を伝えるために誰かが金儲けしてると考えると腹立たしい。
マルクスに「そんな商品のフェティシズムに負けて余剰価値を生み出す
ことに加担してはいかん!」と叱られそうである。(マルクスにとって共産主義における純粋な
恋愛は多夫多妻のフリーセックス制に戻ることらしいなんだが、その話は長くなるのでまた今度)
とにかく、恋愛表現の型は緻密かつ複雑だかこそ、その組み換え方法が
無限にあるので文化産業にとっては絶好の金儲けになるのかもしれない。

とまあ、ただ告白するという行為をする前に色んなことを考えてしまうので全然彼女ができない。
と言うかただの照れ屋なだけである。いやその前に性格がひねくれているのが悪いな。
ピンク色の喉袋を膨らますだけで求愛行動になるグンカンドリが羨ましい。腹袋は出てますが。

<追記>
マルクスの話で思ったんだが、共産主義の恋愛表現を研究すると面白そうだ。
そういやYunxiang Yanという人類学者が「社会主義の中の私生活:
ある中国の村における愛、親密性、家族の変容(1949-1999年)」という民族誌を書いてたな。
書評はまた今度。
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by fumiwakamatsu | 2005-03-03 15:28 | 文化人類学
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