1320コミュニタス

文化人類学には境界的でどっちつかずの社会的状態を表すリミナリティという用語がある。
van Gennepという学者が「通過儀礼(1909)」の中で初めて使ってから定着した用語だ。
子供が一人前の大人として認められるために行われる通過儀礼を分離・過度・再統合の三段階に区分し、
特に、分離と再統合の間の過度の時期に行われる儀式をリミネール儀式とGennepは命名した。
そこから俗世界の中で身のおきどころを変化していく曖昧な境界的状況をリミナリティと呼ぶようになった。

さらにこのリミナリティという概念を発達させたのがVictor Turner。
Turnerはリミナリティにおける体制的・構造的に中心社会と対立する周辺的集団を「コミュニタス」と呼んだ。
彼が調査していたアフリカのンデンブ族では初潮を迎えた女の子や一定の年齢に達した
男の子を空間的に隔離し、村長が厳しく部族の道徳観を植つけるイソマという通過儀礼がある。
この時期の少年・少女達は、大人でもなく子供でもない曖昧な存在なので、
他の村人からは忌み嫌われ、近寄ろうものならばあっちに行け、と追い出しを食らってしまう。
従って、コミュニタスには過度性、他者性、構造的(象徴的)劣性という三つの様相がある。

アフリカの話をされてもよくわからんと思うので、日本の例を挙げると、
大学受験に落ちた浪人生がコミュニタスに当てはまるんじゃないだろうか?
浪人生は予備校という場所に隔離され、大学受験という儀式を通過するために先生の下で必死に勉強をする。
しかし、高校生でもなく大学生でもない曖昧な状態なので、社会からは冷たい目で見られる。
受験を通ったら、晴れてまた社会の一員として認められ再統合される。どうでしょ?

さて、Turnerの本(Forest of Symbols)を必修授業で読んだとき、「院生はコミュニタスの極みだな」と同期の皆と自嘲していた。
じつは、我々の中で「1320コミュニタス」という合言葉がある。1320とは学部のビルにあるコンピュータールーム。
そこに行くと、死に物狂いで博士論文を書いている院生達に出くわすことができる。
しかも、博士論文という儀式を通過したところで社会に再統合されるのか(教授職につけるのか)も不明なコミュニタスだ。
あそこに行くと不幸が移るぜ、と言わんばかりに皆そのコンピュータールームをできるだけ避けている。
しかし、後3年もすれば我が身も同じ。「ちゃんと再統合しろよなー、社会」と1320室でぼやいている姿が目に浮かぶ。
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by fumiwakamatsu | 2005-02-03 14:55 | 文化人類学
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