鬱な理由

「日本人としてアメリカの大学院で学び日本を研究することはどういうことなのか?」

この問題に関しては今まで意図的に考えるのを避けてきた。
と言うのも、このアイデンティティーの問題から人類学を取り組むと自ら視野を狭めてしまい、
それに博士論文という自分にとって最初の学問的意思の表示をしない限りは、この問題を語る権利はない、と自覚していたからだ。
しかし、最近、この問題を考えずには避けては通れない状況に遭遇することが多々あり、忙しいのに時間を割いて考えてしまう。

まず、そのような状況の例を3つ挙げたい。

これはH教授がある研究会で話したこと。
「日本人の人類学者がアフリカを研究するのと、日本人がクラシックを演奏しようとするのは原理は同じだ。
ようは、アフリカ人という他者を対象化することにより西洋と同じ位置に付きたいだけだ。
それは地球規模で価値の位階序列化(Global Hiearchy of Vaules)が存在しているからだよ。」
これには正直怒りを覚えた。日本の人類学者がポストコロニアル批評に対してどれだけ複雑な位置に立ってるか
日本の文脈に対して無知なくせによく堂々とそんなことが言えるな、と思った。

次はある日本人の方に言われたこと。
「アメリカの大学院で日本研究するってことは、ようはメトロポリスに住む白人に自国の知識を献上していることだよ。」
なぜまだ自分の研究成果も示してないのに奉仕する側の人間として決め付けなければならないのか。
またアメリカの大学院/日本の大学院、白人のアメリカ人/日本人、他者としての人類学者/ネイティブとしての人類学者
という対立関係はいったいどこまで固定的に捉えて考えねばならないのか?
しかも、上の指摘はAnthropological Locationsという本の第一章で語られている、つまり欧米側で作られた言説だ。

最後に、太田好信の『民族私的近代への介入』を再読していたときのこと。
「ポストコロニアル批判によって歴史化されたのは欧米人類学の権威であり、日本において文化人類学を学ぶものにとり、
ポストコロニアル批判はむしろグローバルな知の位階序列への反省を促し、より民主的な学問の展開を想像する契機を提供すると
考えられる」
という一節。この本はさらに問題を深く掘り下げて論じられているので彼の論調を単純化してはいけないのだが、
果たして日本語で欧米の人類学者に聞こえない場所でこのような批判を繰り広げることに意味があるのか?
もちろん、英語で語ること自体、位置序列に組みすることになるのだが、ではその答えが日本語で語ることなのか?
これは太田氏のように欧米の人類学で疎外を受けて日本に戻ったというポジションだからこそ話せることなのか?
そして彼が日本の人類学を代弁することで日本人の人類学者から反発がなかったのだろうか?

今まではコースワークに没頭してきたため、「日本人としてアメリカの大学院で学び日本研究をする」という立場を
他人から規定されるような状況にはあまりなかったが、そろそろこの立場に対して自分の答えを出していかなければ、と思う。
単純な二項対立や、学問の世界を語るときだけ社会機能構造論を当てはめたり、
フィールドワークで遭遇する他者を語るとき以外は、人類学者は自ら作り出した認識論を無批判に使ってしまう傾向があるようだ。
しかし、自らの答えを作りだしていないので、このような批判を声に出したくないし、どうしても内に溜めてしまう。
期末のレポートを書かなければならないのに、堂々巡りな思考に邪魔をされてさらに鬱になってしまっている。

このブログで発散するだけっていうのが悲しいとこだ。
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by fumiwakamatsu | 2005-01-05 19:32 | 文化人類学
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