父親

たいていの男なら、尊敬する人は誰ですか、という質問に父親と答える。
じつは自分そうなのだが、1人の大人としては尊敬するものの父親としては全く尊敬してない。むしろ反面教師として見ている。

以前にも書いたんだが、性懲りもなく尊敬する部分だけ集めて父親自慢をしてみる。

父は青森の極貧農家の次男として生まれた。
どれほど極貧かというと3男が里親に出されそうになったのを
父が泣きながら頼んで止めたらしい。

県内の有名公立高校に入学するも両親が農作業の手伝いばかりさせるので休学がちになる。余りにも腹を立てた父は、農作業中に母親に鎌を投げつけ(背中に刺さったそうな)家を飛び出した。そして親戚の家の納屋に住みながら高校に通った。

高校卒業後、上京する金もないので自衛隊に入隊。
このとき父親はアルバムに飾った写真の裏に一句残している。

十八の ○○○○(忘れてしまった)の岐路にたたずんで
死ぬはふるさと 生かばみやこへ

そして2年間、暗合士として北海道の駐屯地で勤務する。
ようやく有り金がたまって上京し、新宿西口の2畳部屋に下宿しながら小説家を志す。日雇い労働やガラス工場に働きながら売れない小説家となる。この時期にはバイトでポルノ小説も書いていたそうだ(素人童貞だったくせに生意気な)。名前は忘れたけど文学仲間には芥川賞を取った人がいたらしい。
文才の無さに気付いたのか、もしくは貧乏生活に嫌気がさしたのか、25歳で弁護士を志す。中央大学法学部の通信教育を受けながら昼は工場で働く。4年目で無事卒業したものの司法試験にはなかなか受からず、半年季節工としてダムの建設などで働き、残りの半年を試験勉強に当てるという生活を繰り返す。

そして卒業から5年目でようやく合格。研修先に東京を志望するも叶わず、京都に来る。当事下宿していた大家さんを通じて旅行に来ていた川崎出身の母親と出会う。服部精工の一般職で働いていた母親は、育ちがいいにも関わらず労働運動にのめり込んだ共産党員だった。お見合いのときに父が書いた貧乏句を見せられ結婚を承諾。今でも「弁護士だからって結婚したわけじゃないらね」と必死に弁解する。

その後、京都にそのまま事務所を構えた父親は水俣病、イタイイタイ病の関西被害者団の訴訟を受け持つ。そして前にも書いたようにヤクザの刑事弁護も引き受けるようになる。母親が初めて見に行った父親の公判が、首切り殺人犯の被疑者の弁護だったそうだ。

2人とも大家族に育ったせいか、お盛んに子供をポンポン5人も生む。
そして末っ子として自分が生まれてきた。


一度、父親に「お前は他の兄弟みたいに色んなところに遊びに連れて行ったりできなかったな」と言われたことがあった。昔は子供を連れて日帰り旅行によく行っていたらしい。赤ちゃんだったので全く記憶がない。でもたまに琵琶湖パラダイス(すでに倒産)に連れて行ってもらった記憶はある。

土日も休まず働くので、子供は全員小学校の低学年から少年野球に入り勝手に週末を過ごす。俺も小2で野球を始める。我が家の前には同志社大学の乗馬クラブのグランドがあった。日曜の夕方、父親が帰ってくるとそのグランドに入り込み、父がボールを投げ、俺が打ち、運動量しか自慢できない我が家のシェパードがボールを取りに行く、という自家製バッティングセンターをしていた。そして、このときからボール球に手を出す癖が付いた。これだけはいい思い出として残っている。

俺が小5の頃、ヤンキーをやっていた次男が恐喝で捕まった。
もし兄貴が少年院に送られれば事務所をたたむ、と言いながら(これは最近知った)父親が弁護した。幸いにも賠償だけで済み難を逃れる。
今でもたまに「あの時少年院に送ってやれば良かった」と愚痴をこぼす。

この時父親は論文を執筆していた。過去に自分が起こしてきた国賠訴訟を基にして、接見交通権(容疑者が捕まったときに弁護士との面会を保障する権利)に関する本を自費出版する。この本が認められてある大学から博士号を授与されることになったのだが、その審査に金を払うのが嫌という理由で断ったらしい。現在、博士課程でもがいている自分にとってはかなり腹立たしい。自慢するわけではないが、父親の本はうちの大学のロースクールの図書館にも置いてある。

65歳になった父親は今も現役。接見交通の件で国賠訴訟を起こすことを無二の楽しみにしている。容疑者の取調べの時点で弁護士が介入できるよう法改正されるまで現役を続けたいらしい。

しかし、さすがにボケてきたのか近頃ズーズー弁が戻ってくるようなった。東京に出張に来る父とよく築地に寿司を食いに行ったのだが、タクシーの運転手に「ちけず(築地)の○○しす屋(寿司屋)に行って下さい」と言い、「はぁ?」と聞きかえされた。あと、実家に帰ると父が大声で寝言を叫ぶのでよく起こされてしまう。夜中の3時に「どろぼー」と大声で叫ぶので、何事かと思い階下に行くと幸せそうに寝ていた。母親も隣で寝ているとよく寝ぼけて蹴られるので今は別の部屋で寝ているそうだ。さすがに年をとるとストレスが解消できないのかも。

両親は子供に勉強しろと一度も言わなかった。そのおかげで、日本の大学に普通に進学したのは5人の中で自分だけ。たまたま小学校のとき友達が塾に通い始め、バスの定期券に憧れて母親に頼んで塾に通わしてもらうようになった。他の4人がヤンキー街道を進むなか、只1人優等生として中学・高校を過ごす。

中学の校舎内には至るところに「○○参上」と兄弟の名前がスプレーで書いてあり、女子便所にまで姉貴の名前で○○参上と書いてあることを女友達から告げられ非常に恥ずかしい思いをした。先生方にも「またあの家から別のが来たか」とマークされていた。授業中に先輩のヤンキーが教室に入ってきて、「お前をヤンキーにせなお兄さん達に怒られるんや」と訳のわからんことを言われた。ヤンキーにはならん、という反骨精神のおかげで優等生になった、というのが正しいかも。ちなみに野球部ではキャプテンだった。

「勉強しろ」とは言われなかったものの父親は1つだけ口うるさく言ってきた。それは、「サラリーマンだけにはなるなよ」という訓戒だった。そんなこと言うから他の4人は勘違いしてヤンキーになったというのに。

大学時代はドキュメンタリーを作るか、大学院に進学するか、という選択肢しか考えてなかった。4年次になって周りの友達が大手企業から内定をもらいだし、俺がテレビ局を落ち続けていくと、さすがにもう他の業界も受けねばと焦り出した。

そこで仕事で来京した父に「しがないサラリーマンとして細く長く生きるわ」と打ち明けた。それに危機を感じた父は「おい、金を出してやるから司法試験の勉強してみないか?」といきなり切り出した。弁護士になれ、なんて初めて言われたので悩んだ。でも法学部にもう行かず手遅れだったので、代わりに大学院を受験するために卒業後の援助を少し出してもらうよう頼む。ただし、もし大学院に受かっても奨学金が出なければ就職、という前提で。

駄目もとでアメリカの大学院を6つ受け、運良くも2校から奨学金付きのオファーが来た。他に第1志望の大学があったのだが、受かったものの奨学金もでず、別の修士課程にまわされたので今の大学に決めた。

両親に合格を報告すると、母親は大喜びした。でも父親は「学者なんて机上の空論してるだけだぞ」とまだ未練たらしく愚痴っていた。そんなに息子を弁護士にしたかったのなら、もっと早くに英才教育を施せばよかったのに。

昔、父親と一緒に風呂に入ったときはいつも吉幾造の「おらこんな村やだ」を歌っていた。「テレビもねぇ、ラジオもねぇ、電話もなければ、未来もねぇ(だったかな?)」と俺は田舎を馬鹿にして歌ってたが父親にとっては全く別の意味だったんだろう。

こういう典型的昭和1ケタ代の父親を持つと嫌でも「何事も真面目にやれ。時間を無駄にするな。家を出て成功しろ。」という価値観を埋め込まれてしまう。兄貴達は真剣に、時間を無駄にせずヤンキーやっていた(次男は尾崎豊を真面目に見習い卒業式に校舎の窓を割っていった)だけで、俺はたまたま勉強という道に進んでいったんだと思う。

振り返ると、過去には色んな分岐点があり、どこでどの方向に進んでたかわかりやしない。ただ言えるのは、貧乏生活で培われた父の勤勉性がどの方向に行っても付き纏ってきたに違いない。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:31 | 雑記
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