5年前、寮の友達と朝まで幸せ論について話してた。

自己を他人と比べて客観視し始めた時点で人は不幸になる。ならば自分の好きなことが正しいと信じ込むのが幸せだ、とそいつは言った。

いや、それは違う。人は生まれ出た瞬間にある価値体系に埋め込まれてるのだから客観視というのは必然的に起こる。ならば、自己に絡み付いて来るしがらみにもまれながら存在意義を見出すことが幸せだ、と反論した。

村上春樹好きと大江健三郎好きの違い。
美人とセックスして虚無観に浸りながらも自己満足するか、年老いた娼婦の爛れたあそこを見つめながら人生の意義を見つけ出そうとするか。彼はサバサバした性格で俺は悶々とした性格。

当事お互い打ち込んでることがあった。彼は写真で俺は論文を書くこと。話をしているうちに彼は他人の評価が大事であることに気付き、俺は有名な論文の引用ばかりしてオリジナリティーの無さに気付いた。

そこで行き着いたのは、夢中になって成し遂げたことが他人に認められたら幸せなんだろう、と至極当たり前の結論だった。

一年後、2人とも留学した。彼はイタリアで写真を撮り続け、帰る間際に個展を開いた。俺はカナダの大学でできるだけ多くの社会理論を学び、日本に戻ってから卒論の現地調査で留学の成果を応用した。

結局、彼はコンピューター関連の仕事に普通に就職した。
ビールを飲みながら自家製スパゲッティーに舌鼓を打つ。写真は趣味として続け、日常の些細な変化に思考巡らす。まるで村上春樹の小説がモデルのように。

俺はアメリカの大学院に進学。新しい理論を嫌と言うほど習う毎日だが、自分の研究に目を移すとオリジナリティーの無さに愕然とする。論文を書いていると、あまりにも辛くて大江健三郎の「我らの時代」の一節を思い出す。「死が目前にあるのに自殺することができない、これぞ我らの時代!」

果たして彼と俺とはどちらが幸せなのだろうか?どちらが幸せになるのだろうか
[PR]
by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:25 | 雑記
<< 文化人類学はすでに「死亡宣告を... デュルケイムが個人と集合的良識... >>