文化は進歩し続ける

全く内容の異なる2つの講演でこの言葉を2回聞いた。そしてそのどちらとも文化人類学が歩むべき方向性について考えさせられるものだった。

まず修正進化論を唱えるNY州立大学の生物学者の講演。

これまでの進化論は「最も適合した者が生き残る」というダーウィンが唱えた個人レベルでの進化論と「最も適合した集団が生き残る」という社会進化論に二分されてきた。では、その2つを繋げる中間点を探ろうというもの。

簡潔に論調を述べると

(1)個人が自己の利益を最大限化させると集団全体の再生産能力が低下する
(2)従って無意味な競争を避けるために共存を図る道徳観(これを文化と講演者は呼んでいた)が集合体の中で進化していく。
(3)最終的に、バランスの取れた文化を持ち合わせる集合体は生存率が高まり個人レベルで遺伝子も同様に最適化する

という内容。

20世紀に植民地主義を煽った社会ダーウィニズムの再来である。

腹立たしかったのは、バクテリアや蜂の集合的働きの例を用いて、それが人間社会にも当てはまるという、単純な飛躍だった。こんな理論は簡単に批判できる。

人間社会において一体どこの集合体が他の集合体とミックスせずに遺伝子を再生産し続けると言うのか?そして文化レベルでの融合性をどう説明するのか?

最後に講演者が自著の「ダーウィンの教会」という本を説明し、「一見なんの実用性もない宗教的儀式も集合体の生存のために機能している」という主張をした。時代錯誤も甚だしい。そんなことは人類学者のマリノウスキーが100年前に言ってるのに。

心の中で何度も「ふざけるな!」と叫んでいたが、嬉しいことに質問の際、他の生徒が批判をしまくり場内が騒然となった。この大学の生徒はまだ健全なことを知ってホッとした。

新たに修正社会ダーウィニズムを唱える学者が出てきていることを知っただけでも大きな収穫だった。このような論調は容易に人種差別に変わっていく。アメリカ人類学の創始者であるフランツ・ボアズが半世紀前に公然と社会ダーウィニズムを批判したように、文化人類学者として真っ先にこのような理論を批判せねばならない。

2つめの講演は「Black Bitches Talking」というオーストラリア原住民の女性5人をインタビューしたドキュメンタリーフィルムを見たとき。出身地、職業、階層の全く異なる5人が、日常の人種差別、アボリジニーとしてのアイデンティティーの回復を語る。最終的に5人が同じテーブルで夕食を食べ、団結を誓い未来に進む、という内容。

上映が終わったあと、同じく原住民である監督が質問に応じ、「私達の肌の黒さは変わりません。しかしアボリジーとしての文化は進化し続けます」と話した。

皮肉に聞こえるかもしれないが、彼女の言う文化とは「創られた文化」に過ぎない。

だって彼女達の2世代前までは、各部族間に何の交流も無く、近年になって社会的に差別されてきた仲間という意識が広がったために「同じ文化を共有する」と唱えているのだ。それに同胞というよりは、弁護士のお姉さんもいればアル中のおばさんもいて、むしろ差異の方が目立った。

もっと皮肉になろう。

この監督が自製の映画を作ってアボリジニーの立場を発言できるのは、白人という覇権者が立場を与えて初めて発言できるようになったからだ。「発言できない者」から「発言出来る者」への移行が、権力関係を全く変えていない点を彼女は認識していない。そして、自ら同胞意識を煽ることで、差別されていた原住民の中に新たに差別が生まれている点(例えばアル中のおばさんの貧困は軽視されている)も意識していない。

イタリアの思想家グラムシーが「ヘゲモニー(覇権)は目に見えない。被抑圧的立場から脱出するためには抑圧者へと移行するしか手段はない。」と唱えたのが、見事に当てはまっている。

では、「アボリジニーの文化は近年になって創られた偽の文化である」、と構築主義立場に基づいて文化人類学者が結論すべきか?

答えは否だ。

人種、階層、年齢、ジェンダーなどのアイデンティティーに従って、社会的に抑圧されてきた者(インドの被抑圧的カースト集団の名前に従ってサバルタンと呼ばれている)が、発言する場を作り出すために自らの文化を戦略的に本質化させているのであって、学者が権威を盾にそのような運動をつぶしてよいのか?

文学者スピバックは、文化人類学が構築主義に偏り始めたとき、真っ先にそう批判した。

従って、被抑圧者が戦略的本質主義に拠らなければならない社会の文脈を明確化し、彼/彼女達の達の向上を助成しながらヘゲモニーの構造を批判すべき、というのが現在の妥協点である。

しかし、これもまだ解決策ではない。結局サバルタンに発言の機会を与える最終権力は我々が把握しているからだ。ヘゲモニーに変わらない。

これが以前の日記で書いた文化人類学の孕む他者表出の問題である。完全に口を閉ざして民族誌など書かない方が権力の不均等を生まないのだろうか?

ここで反論したい。

スピバックの批判も、サバルタンという他者を道具に使って初めて成り立っているのである。他者表出の暴力性はどちらも同レベルではないだろうか?
そして、沈黙することも1つの演出に過ぎない。それは他の権力者に最終判断を委ね、批判する機会すらも消してしまうことになる。先述の生物学者をのさばらせる危険を生んでしまう。

ここまで来ると完全に袋小路だ。

しかし文化人類学はまだサバルタンと直接接触を図る柔軟性を持っている。
この柔軟性に僅かながらも新たな可能性が含まれていないだろうか?

今日聞いた2つの「文化は進化する」という発言は、いい意味で文化人類学への挑戦だった。変化こそが永続なり。

追伸:今日の日記を読んで面白いと思われた方はリンクにも貼ってある太田好信氏の「民族誌的近代への介入」という本を読んでみて下さい。正直言って彼の主張をパクッてます。えへへ。
[PR]
by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:13 | 文化人類学
<< 寿司食いねぇ! Railway Urbanism >>