ハドラミスと隠れた歴史

以前に取っていたMobilityというクラスを教えていた教授がこの部族のディアスポラ(移民)について研究している。ディアスポラという現象はアメリカ、アフリカ、ヨーロッパをまたぐ民族を中心によく研究されているが、彼はインド洋に目を向けアラビア半島と東南アジアを往来したこの民族に焦点を当てた。

このハドラミスという部族は現在イェメンにあたるアラビア半島先端地域で遊牧や農耕を営んでいた。13世紀以降イスラム改宗運動が高まるとイマム(イスラム教の指導者)達は当事盛んだった中東-東南アジア間の貿易船に乗りマラッカ半島やインドネシアへと改宗の旅へ出かけた。

彼らは行く先々で聖職者として迎えられ各地の権力者の娘達と結婚していった。国民国家(Nation-State)という枠組みが普遍化した今ではなかなか想像できないが、国境という概念が無かった当時は部外者でも簡単に受け入れらたのだった。そして混血の子孫達はアラビア人としての意識と言語を保ちながらも、聖職者、外交官、軍隊の指揮官として各地地域の王朝中枢部に食い込んでいきアラビア半島との交易を活発にさせる。現在のマレーシアの外務大臣もじつはこの子孫であり、誰かは忘れたがインドネシアのある大臣もこの部族出身である。

16世紀以降、ポルトガルがインド洋貿易に介入するようになり、その後オランダとイギリスが武力で各交易地を植民地化していった。19世紀アチェ王朝(現在のインドネシア・アチェ州にあった王朝)とオランダ海軍が30年に渡り戦争を繰り広げた。そこで、中東から東南アジアにまたがる複数の王朝に結束を促すために外交役を買ってでたのがこのハドラミスの子孫である。彼らにはすでに貿易、親族、宗教で繋がれた巨大なネットワークが出来上がってた。

その中で一番有名なのがムハンマド・アルラヒルという人物。インドで生まれてエジプトでイスラム教育を受け、またインドに戻り貿易業を営んでいたのだが、ヨーロッパ各地に旅へ出かけ様々な学問を吸収し、最終的にはマレー王朝に遣えることになった。アチェ戦争が始まったとき、彼はトルコオットーマン朝や他のイスラム王朝に出向いて派兵を要請し、また当事進出してきたイギリス軍にも応援を頼んで、結局オランダ軍を退けることになった。オランダ軍はインド洋を駆け巡る彼を捕まえようと必死になったものの、ネットワークの広さゆえに捕まえることができずじまいだったのだ。

さて、勘の鋭い人はじつは現代版のアルラヒルがいることに気付いたのではないだろうか?

そう、オサマ・ビンラディンである。
彼もじつはハドラミス部族なのだ。

彼の生地もイエメンで、父親がサウジアラビアで建設会社を興し臆万長者となった。オサマはオックスフォードで教育を受けた後、東アフリカからフィリピンに渡るハドラミスの子孫のネットワークを転々と辿って行った。そして各地でイスラム原理主義を説いてアルカイダのメンバーを増やしていき最終的にアフガンに落ち着いたのだ。

では何故彼は9・11を起こしたのか?
答えは簡単。ハドラミスの過去には同じような聖戦がいくらでもあったからだ。オサマは帝国主義を崩すためのテロリストとして見られがちだが、そうではない。彼が9・11直後に出した犯行声明で真っ先に要求したのがアメリカ軍のサウジアラビア撤退である。つまり聖地を汚すものへの反抗にすぎない。世界秩序の編成なんて2の次の話だったのだ。

そして何故彼が捕まらないのか?
これも答えは簡単。アルラヒルと同じく彼には世界をまたぐ広大なネットワークがある。現在もパキスタンにいるかどうかはわからないが、アメリカのCIAにも追いつけない逃げ道がいくらでもあるのだ。

さて、こうして見ると西洋の帝国へのテロリズム(ハドラミスの子孫にとっては聖戦)は一定のリズムで起こっていたのであって、決して新しい話ではない。これはハドラミスのディアスポラに目を向けて初めて理解できる隠された歴史なのだ。

この話は「Empire from Diasporatic Eyes」という教授の論文に書かれているので興味が沸いた人は是非読んで欲しい。イスラム教徒のルームメイトも同じ論文を読んだのだが、2人とも興奮して2時間ほど議論してしまった。
授業の中で教授は「たしかに過去に起こった歴史的事実は変わらない。しかし、視点を変えることによっていくらでも新しい事実なんて見えてくるんだよ」とおっしゃり、それを堂々と成し遂げたこの人にはまるで後光が差してるように見えた。
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by fumiwakamatsu | 2004-08-27 14:09 | 文化人類学
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