答えはいらん

Uncanny...juxtaposition of seemingly contradictory/ paradoxical ideas, activties and things,
which reveal multiple and diverse meanings through their comparison and conflict.


「クレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言ったら、それは真実だろうか?
矛盾する2つの要素が1つのメッセージの中に並列的に含められると、
その矛盾のせいで意味が固定化せず、ずっと不安定になる。この状態をUncannyと言う、らしい。

人間はどうしても合理性を求めてしまうので、Uncannyなものを突きつけられると一種の混乱に陥る。
例えて言うと、その混乱は合わせ鏡の間に立ったときの心境みたいなものだと思う。
見たくないのに永遠に続いていくものを見てしまうような感覚。終点が欲しいのにどこにも出てこない。
人間は理性的だからこそUncannyなものは感情を揺さぶっていく。

黒澤明の映画を見ているとこのUncannyな場面が多い。

たとえば「乱」。
負傷した侍が死体の転がる戦場で何かを必死に探す。
まだ弓矢が飛び交う危険な状態なのに。
ようやく見つけたのが切られた自分の右腕。
それを冷徹に眺める。
一体この侍は正常なのか狂っているのか?
説明が付かない。
(ちなみに全く同じシーンがスピルバーグの「プライベートライアン」にある。)

たとえば「夢」。
第一夜で狐の嫁入りを見てしまった少年の話がある。
怒った狐は、少年の母親に短刀を渡し、少年に切腹するよう言伝を頼む。
家に戻ってきた少年を母親は締め出し、短刀を持って1人で狐に謝りに行かせる。
その最後のシーンがなんともUncanny。
遠方には暗く連なる山々。
手前には虹と花畑が広がる。
少年がその境目に立っているところでエピソードが終わる。
幼少期には不安と希望が均等にあって、
だからこそ心が混沌としている点が見事に描かれていた。

黒澤明だけでなく、このUncannyな表現方法を使っている芸術家は多い、と思う。
日本人なら月岡芳年、西洋人ならピカソ、かな。
絵画だけでなくて、写真やドキュメンタリーでも応用できないだろうか。
どうでしょう?

<追記:下のコメントに書きたかったんですが長くなりすぎて載せられなかったのでここに書きました>

>Jさん Uncannyの定義なんやけど、「感情に不協和もたらすことがら」だとあまりにも広くて、なぜどうやって不協和音をもたらすか、の部分が抜けてると思うんですよ。そこでこの日記の最初に書いた定義は、担当教官の授業で、Ivyの本を読んだ後、皆で議論したあとに作った定義なんです。つまり相互に矛盾する考え、行動、物事が配置されたとき、それらが反発しあうことにより起こる不協和、意味の多義性のこと、としてUncannyを再定義したのです。だから、JさんがUncanny Modernityの授業(超面白そうな授業やね)で習った定義とは異なるかもしれん。感情に不協和をもたらすことがらは別に内在する矛盾要素の並列によりのみ起こるとは限らないとは思うんですが、俺はUncannyという言葉を使うときは、その定義に乗っ取って使っております。
 そこで、実体そのものがUncannyということはありえない、という話ですが、たしかに認識という段階に至らないと、Uncannyにはならないとは思います。ただ、これはひねくれた言い方かもしれませんが、実体がなかったら認識も起こらないんじゃないんでしょうか?この話を突き詰めると、「卵と鶏どっちが先か?」という話になるので、ここじゃ省略しますけど、俺は何かしらの状況でUncannyと他人に想起させてしまう実体側も重要視しされるべきだと思います。Jさんの疎開児童の例(これは飢えをしのいでるはずなのに笑ってる、というような写真なんかな?)で言うと、戦争という歴史背景や疎開という国家行事がなければ、その子供が「疎開児童」の写真として収められなかったわけで、そのような実体を無視するとただの記号の解釈論に陥るような気がします。別に実体と認識のどちらに重きを置けという話ではないですが、どちらも同じくらい重要視されるべきだとは思います。
 最後にじゃあなぜ写真という媒体がUncannyを表現する手段として難しいかと言うと、それは見る側の基準に左右されやすく、また写真の中で表現できる時間、空間の幅が極度に狭いからだと思います。文章という表現方法なら「ヒトラーが『私の命令に従うな』と命令した」と、別に過去に起こった事実でもないことを勝手に作り上げて、かなり固定された意味でUncannyなものを作れるけど写真ではそうはいかない、と言いたかったのです。
 どうでしょ?

<またコメントが長くなったのでこちらに書きます>
人類学をやっていると自己矛盾したメッセージが文脈によっては適切な場合がある、というのはよく聞く話です。でも、Jさんの白熊の例と結論はポイントがずれてると思います。まず、白熊の例は、話者自身が「北国にいる熊はみんな白いけど私は北国で黒い熊しか見たことありません」と言うならわかるけど、質問者が勝手に作った前提(北国にいる熊は全員白いのでAは絶対に白い)に対して、回答者はその前提に繋がる答えを出していないだけだからです。回答者側には矛盾は何もないんじゃないかな?というのも、文脈を考えると前者はただ自分の経験以上のことは語りたくない、と言ってるだけで、後者は自分達の意見を言わないような年功序列の論理が働いてるだけ、と思います。クレタ人もヒトラーの場合も「前提」と「結果」が1つのメッセージの中で矛盾してる、という点でJさんの例とは違うと思います。
 ただ、クレタ人もヒトラーも実話じゃないので、じゃあ実際に自己矛盾してるようなメッセージを矛盾として何の問題もなく交換している場合はどうなんか、と聞かれた場合は知りません。もしクレタ人が「クレタ人は皆嘘つきだ」と言ったとしても、それは、外国人に対してクレタ人のずる賢さをアピールしたい、という文脈では十分に整合性があると思います。では文脈がメッセージの意味を決定する、としたらそれこそまさに認識の差異を固定化して強調するよりも、文脈という実体に焦点を当てたほうがいいのじゃないでしょうか?あ、でもこれは少し論点が違うな。
 押し付けの話なんやけど、俺は別にUncannyという特定の読み方を当人達がそうじゃない、と言っているのにそう読み取れと決め付けてるわけじゃないです。もし当人達がUncannyじゃない、と言っているのならそれは矛盾がなく一貫性があり、ただ第3者が気付いてないだけの話なんじゃないでしょうか?それとも「誰もが皆論理的だ」という前提は近代的構築物なのにそれを俺が無批判に受け止めている、という考えなんでしょうか?おそらく、近代的ReasonとLiteracyというのは、共通言語を口頭でなく文字として習得し、文脈に支配されない抽象的次元でコミュニケーションを取れるようなことを言うんだと思いますが、では文字じゃなくて抽象的じゃなければ論理的じゃないのか、となると疑問が湧きますし、それでも論理があると立証してる民族誌は多いと思います(アザンデの魔術のようにね)。
 なんかこんなこと書くと小学校のときによくいた嫌味な学級委員長みたいで嫌なんですが、一応考えを述べさせてもらいました。どうでしょ?もしコメントにおさまり切らないようでしたら遠慮なくメールして下さい。
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by fumiwakamatsu | 2004-12-06 16:04 | 雑記
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