クールに熱く

リンクにも貼ってあるAshida氏の日記で、昔のことを思いだした。
「抑制された熱さ・タメの効いた表現」というのが当事の寮の仲間内で流行っていた(極一部だけど)。
日記にも書いてあるように、ジャミロクアイの音楽はベース音がリピートしている曲が多く、盛り上げるのを堪えたタメのようなものがある。
これは、起承転結的に爆発→終焉を迎えるのではなく、Ashida曰く「盛り上がらず反復することで、ある種呪術的な高揚を作り出す」。
意図的に抑制されたクールな熱さ。Ashidaが言うようにこの切り口は確かに色んなことに応用できる。

Ashidaはもちろん写真について語ってるんだが、民族誌についても同じことが言える。
民族誌というのは特殊な書体ジャンルで、その名の通りある民族集団の生活様式や思想体系などを実地調査に基づいて描いたものだ。
もちろん、理論的な土台があるのだが、実地調査をするぶん、かなり具体的な描写を織り交ぜなければならない。
そして、そのバランスがいつの時代も議論の火種となっている。

堂々と斬新な理論を提示して「どうだ、文句あるか!」というようなスタイルもたしかに魅力的だ。
でも、最近読んだ中で「これはすごい!」と納得させられる民族誌は全く異なる。
とても具体的な描写をしているのに、その背景には脈々と流れる理論的視点が織り込まれている。

例えば、チェルノブイリ原発事故後のウクライナにおける、
医療補助と市民権の矛盾を描いた「Life Exposed」という民族誌を以前に読んだ。
その中の一章で、被爆ランクを決定する医師の姿を描写した部分がある。
次から次へと診察室に入ってくる被爆者たち。それぞれ感情を露にして苦痛を訴える。
しかし、医師はまるで機械的に患者の訴えを退けていく。
医師も疲労と感情の起伏を押し殺し、一日中延々と同じ事を繰り返す。

一見したところ「だから何なのだ?」と思われるシーンなのだが、これはマックス・ウェーバーの「鉄の格子」という理論を如実に写している。
それはある政策が実施されると、目的を到達するためだけに合理化が進み、ドライな官僚主義のもと人間の内面性が失われる、という理論。
読者が人類学や社会学を学んでいる人ならば、別に理論を明確に提示せずとも何を言わんとしているのかがわかるのだ。
動いているのに止まっているような描写。これは簡単そうでなかなか難しい。

というわけで、もし「抑制された熱さ・タメの効いた表現」を民族誌に応用するならば、
ものすごく具体的なことを書いているのに、その背後には何かしら普遍的な主張がされているスタイルだと思う。
このBlogもそういうスタイルで書くよう努めているのだが、いかんせんまだまだ未熟者だ。
いつの日か読者の皆様に、「呪術的な高揚」を与えることができるのを夢みている。

追記
昨日の質問に答えてくれた皆様、ありがとうございました。
友達には結果をメールで送っておいたので彼の卒業制作にも役立つと思います。

あと右上の写真を自画像に変えました。
一度、このホームページを通じて会った人がいるのですが、
文体からは全く顔が想像できない、と言われたので顔も出してみることにしました。
これからも下ネタをどんどん提供していきたいと思います。
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by fumiwakamatsu | 2004-11-16 13:05 | 文化人類学
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